31 なんでもっと早く
駆ける足が地面を蹴るたびお腹の傷が痛む。だけど泣き言を吐く時間はない。歯を食いしばって大きく足を前に出した。
この島で一緒に暮らした人々の顔が次々と頭に浮かんでは消えていく。海で獲った魚を分けてくれた人、朝必ず声をかけてくれた人、遊びに誘ってくれた人。その人達にはみんないつも隣に大切な人がいて、笑い合っていた。だから僕はまだ答えが出ていない。すなわち、この方舟は善なるものか否かの。
……僕が宇津木さんと同じ立場なら、きっと死にものぐるいでラッパを取り返そうとするのだろう。たとえ偽物だとわかっていても、また僕の前からその人が消えてしまう恐怖に耐えられない。なのに今はできるだけ人を逃がしたいだなんて独善もいいところだ。
あの人なら、こんな僕の矛盾にどう屁理屈をつけるのだろうか。
(曽根崎さん! 阿蘇さん!)
戻ってきた教会の前には大勢の人が集まっていた。中身が人じゃない者たちはもちろん、大切な人とここに残る選択肢をした人もそうだろう。その人達の前で、シスターはまるで勝者のようにラッパを天に掲げている。そして彼女の隣には――。
「これほど逃亡者が出るのは想定外だったんじゃないか?」
いた。曽根崎さんだ。彼は不敵な笑みを浮かべているが、シスターはやはり静かに首を横に振るだけだった。
「いいえ、終末のラッパの音は島中に響き渡りますもの。気の迷いで逃げ出してしまった者も皆等しく神の御下へ導かれます。我々は何も失ってはいません」
「そこまで計算していたのか? 信者の逃亡を前提とした上で方舟と名付けるなど神への冒涜だろう。今この場で悔い改めるなら、私が直々に監獄という名で正してやるが」
「そのようなお手間は取らせません。なぜなら間もなくあなたも身をもって理解してくださるからです」
曽根崎さんが時間を稼いでくれているのは明白だった。ちょうどシスターの死角になる場所で、阿蘇さんが逃げ遅れた人を誘導していたからだ。
だけどシスターの手にラッパが渡った以上、残された時間は少ないはずである。僕は急いで辺りに目を巡らせ、座間さんを探した。
でも僕の注意を引いたのは彼じゃなかった。見つけたのは、少し離れた場所でしゃがみこみうなだれる女性。彼女はたくましい体つきの男性を膝枕し、泥まみれの髪を撫でていた。
「サユリさん」
声をかけると、サユリさんはびくっと肩を震わせた。けれど視線はこちらに向けられない。一分一秒でも惜しいように彼女はジョウジさんの形をした何かに手を添えていた。
彼の両腕は肩の部分からもぎ取られており、そこからは悪臭を放つ汚物が覗いていた。
「サユリさん。逃げましょう」
無駄かもしれないと思いながらも声をかける。僕の胸を満たす罪悪感が、今のサユリさんの行動を否定したがっていた。
「そのジョウジさんは本物じゃないんです。あなたも曽根崎さんの説明を聞いたでしょう。これはサユリさんをここに連れてくるためにシスターが作った人形です。僕らと一緒に元の場所に帰りましょう」
やっとサユリさんの顔が持ち上がる。その頬には幾筋の涙の跡が残るも、既に彼女は泣きやんでいた。
「この人ね……昔からそそっかしかったんです。特に大事な場面でやらかしちゃうことが多くて……。結婚式の時もそう。あんなにスピーチの練習をしたのに、本番になったら全部セリフが頭から飛んじゃったんです。結局言えたのは私に『愛してる』って、それだけ。おかしいでしょ」
「……サユリさん」
「きっと、誰よりも早くラッパを取り戻したかったんでしょうね。でも転んじゃって、後から来た人に踏まれて……私のもとに帰ってきた時には、こんな姿になっていました」
サユリさんの細い指がジョウジさんの頬を撫でる。ジョウジさんは固く目を閉じたまま動かない。
「でも、私はジョウジさんがどんな姿になったって愛しています。帰ってきてくれればそれでいいんです。……私のもとに、いてさえくれれば」
「けれどサユリさん。その人は本物のジョウジさんじゃないんです。……帰りましょう。サユリさんのことを待っている人だっているんじゃないですか? 家族とか、友達とか……」
「……あなただって、そんな説得じゃ私の考えを変られないってわかってるでしょう?」
図星だった。彼女の指摘に唐突に強い感情がこみ上げてきて、僕は大きなものを飲み込んだ時のように何も言えなくなった。
「私はもう生きられません。ここが私の終わりです。だったら、ジョウジさんの顔を見ながら迎えたいのです」
「だ……だめです! だめです、サユリさん!」
矛盾も偽善もかなぐり捨ててサユリさんの肩を掴んだ。僕の頭には、真っ暗な世界で永遠にヴィオラを奏で続ける異形の老人の姿があった。
「それだとあなたは本当のジョウジさんと同じ場所に行けないんです! あなたがこれから連れて行かれる場所は、怖くて、暗くて、生も死も存在しない混沌です! そこに人はいないんです! 亡くなったジョウジさんはいないんです!」
突然サユリさんが僕を真正面から捉えた。視界の隅でシスターが唇にラッパを当てる。どろりとした泥濘の目が、僕の顔を映した。
「――なんでもっと早く言ってくれなかったの」
それが最後だった。
聞き覚えのある旋律が僕の鼓膜を震わせ、激しい頭痛を呼び起こした。





