30 悲痛な声
最初から僕は曽根崎さんの指示を受けていた。
まず、藤田さんと阿蘇さんが方舟の人たちに疑念と不安の種を撒く。それから曽根崎さんが感情を増幅させる。これで人々とシスターの注目は曽根崎さんに集まるから、その隙に僕がラッパを掠め取るというわけだ。
「逃さないでください! そのラッパは、皆さんが愛する者と共に神の下に向かうために必要なものなのです!」
ゆらりと数十人が同じ挙動でゆらめく。次の瞬間、胡乱な目をした人々が一斉に僕に飛びかかってきた。
際どいところで避ける。それで終わりだと思っていた。でも実際は、彼らの半分以上は先回りすべく移動を始めていただけだった。
まるで統率が取れた兵士のようである。けれどこれら兵達には個々の意思がないと僕は知っていた。
「この光景をあなた方は見たことがあるはずだ! そう、シスターのラッパが何者かによって盗まれた時です!」
曽根崎さんが声を張り上げる。
「この者たちの行動原理は、個人の意思でもあなた方の声でもなくシスターの一存のみ! 彼女の一声こそ最も優先すべきものなのです! あなたがかつて愛したその人にこの光景はありましたか!? あなた以上に優先させる存在はあったでしょうか!」
絶望と哀願の悲鳴の波に押し寄せられてもなお、曽根崎さんの声は埋もれない。
「ここから脱出すべきだ! あなたの感情と愛する者を利用しようとする存在に、その身と情を差し出すべきではない! 全員彼を追って船に向かって走れ!」
僕の前に一人の女性が立ちふさがる。空っぽで淀んだ目だ。その目の奥に小動物の歯が浮いているのが見えた。
ぶつかる――。だがそう思ったのも束の間、一人の男性が女性を殴り飛ばした。地面に倒れる女性を見下ろして、男性は嗚咽を漏らす。
「サキコは……本当に優しくて、小さな虫ですら逃がすような人だった……! こんなことはしない……!」
彼は、教会の地下で僕を拘束していたうちの一人だった。
「俺は逃げるぞ! こいつらに妻との思い出は汚させない!」
それが皮切りだった。その場に愛する人の形をしたモノを残し、人々が僕のほうへと駆けてくる。だけど、人数にして四割といったところだろうか。
「無理……無理よ……」
騒然とする祭り会場で、サユリさんがしゃがみこんでいる。ジョウジさんが走っていっただろう方向を呆然と見つめながら。
「もう……私は生きていけない……。ジョウジさんがいない世界には戻れない……。なんで……なんで、こんなことを……」
最後の言葉は、紛れもなく僕に向けられていた。
「止まるなよ、景清!」
でも僕はもう後戻りはできない。いつの間にか隣にいた藤田さんが僕を現実に引き戻した。
「この案はお前が捕まってラッパが奪われたら終わりだ! 走れ!」
ラッパをお腹に抱え込む。あちこちから伸びてくる手をかいくぐり、必死で前に進む。
時々体を掴まれそうになった。でもそのたびに、藤田さんや一緒に逃げたい人達が僕を助けてくれた。
空っぽの集落を走る。祭りの残滓が視界を掠める。空気の塊を吐き出して力いっぱい地面を蹴る。目指すは船が繋がれた海岸だ。
ふいに目の前に男性が飛び出してきた。髪を振り乱し血走った目をしたその人は、僕にナイフの切っ先を向けていた。
「ラッパを渡せ!」
宇津木さんだった。僕が何か言う前に、彼はまっすぐこちらに突っ込んできた。
ふと気づく。宇津木さんの目は、狂気で血走っているのではなく、泣き腫らした末の充血なのだと。
「景清!」
宇津木さんの感情に目を奪われていた僕は、ほんの僅か動きが鈍った。咄嗟にラッパを前に構える。カンと金属がぶつかる音がしたのと熱いものが腹部に触れたのはほぼ同時だった。
じわじわと服に真っ赤なしみが広がっていく。それを視認した瞬間、焼けるような痛みが僕を襲った。僕は刺されたのだ。
「返せ……! お前にそれは必要ない!」
痛みに動揺するうちに僕は宇津木さんにラッパをむしり取られていた。突き飛ばされる。彼の視線はもう僕にはなかった。追ってきた一人の女性に向けられていた。
娘の知沙菜さんだ。
……いや、知沙菜さんの形をした何かだ。
「知沙菜! お前がほしいのはこれだろう!? これでもう大丈夫なんだよな? お前と離れないで済むんだよな……!」
ふらふらと宇津木さんは知沙菜さんの元へと歩いていく。だが知沙菜さんの手にラッパが渡った時だ。
「よくもお前……オレの大事な大事な景清を!」
追いついた藤田さんが宇津木さんを蹴り飛ばした。そのまま自分の体重を乗せて宇津木さんを地面へ固定する。そして、首にナイフを突きつけた。
「知沙菜さん、そのラッパをこっちに渡してくれ」視線だけ知沙菜さんに向け、藤田さんは言う。「それはあなたとあなたのお父さんも含めたこの島にいる全員を破滅へ導くものだ。そんなものを持ってちゃいけない」
だが知沙菜さんは藤田さんを無視した。見向きもしなかったのだ。ラッパを手に入れた彼女は、ナイフを首に突きつけられる実の父親を一顧だにせず踵を返した。
「止まってください、知沙菜さん! あなたの父親がどうなってもいいんですか!」
「知沙菜……? 知沙菜!」
宇津木さんの声は悲痛だった。
「知沙菜……た、頼む。何か言ってくれ! ラッパを持っていくのはいいんだ! お父さんを置いていったっていい! でも、何か、何か一言でいい。おれと話してくれ、知沙菜……!」
そんな彼の横をぞろぞろと方舟の人たちが歩いていく。ラッパを取り返したことが共有されているのだ。みんな嘘みたいに穏やかな声で僕らに微笑みかけていく。
「行きましょう、みなさん」
「大変、あなた怪我をしているわ。早く手当をしないと」
「いきましょう」
「いきましょう」
「神の御下へ」
「愛する者と共に」
それは、シスターの声に他ならなかった。
「……知沙菜……」
宇津木さんはうつむいたまま動かない。ナイフを首に当てられているというのに、その恐怖は少しも感じていないみたいだ。
藤田さんは微動だにしないまま、僕に向かって尋ねる。
「景清。腹の傷はどう?」
「あ……はい。えっと、かすり傷の範囲だと思います。痛みはしますが動けます」
「そっか。行くのか?」
その言葉にハッと顔を上げた。目が合った藤田さんは真剣な顔で僕を見つめている。
「はい」
気づけば言葉が滑り落ちていた。
「座間さんには発作が出ていました。もしかしたら助けが必要な状態かもしれません。僕は戻ろうと思います」
「わかった。……」
藤田さんは何か続けようと口を開けたけど、思い直したように一度閉じ、目を細めた。
「逃げた人たちのことはオレに任せて行っておいで。でも、自分のことだって大事にするんだよ」
「藤田さん……」
「早く行け。間に合わなくなる」
その言葉に、ついに僕は頷き走り出した。





