29 救いの手は二つにあらず
どよめき。悲鳴。混乱。方舟の人々の反応は概ねそんなところだったろうか。だがその半数は、観測者であるパートナーの脳から自動的に出力された感情だと今の僕は知っていた。
場違いなぐらい高らかに曽根崎さんが声を張る。
「ここで遅ればせながら自己紹介をいたしましょう。私の名は曽根崎慎司。警察や一般常識では解決できない異常現象を解決に導く〝怪異の掃除人〟です。例に漏れず、このたび私がこちらを訪れたのは奇妙な事件を始末するためです。
さて、ご覧いただいたとおり、皆様のパートナーはシスターがゴミを固めて作った人形でした。彼ら彼女らを構成するのは腐った肉や野菜。皮膚の内側に流れるのは血液ではなく緑色の汚水です。
――もうおわかりでしょう。あなた達の愛する人は、生き返ってなどいなかったのです」
半狂乱に陥った女性が恋人の肩を掴んで泣き叫んでいる。それすらかき消すほどの金切り声が響いた。
倒れたおばあさんをおじいさんが血走った目で見下ろしている。彼の手には、緑色の液体が滴る小型のナタ。
「奇しくも、私は数多の怪異に関わる中で今回と類似し事件に遭遇したことがあります」曽根崎さんは流れるように言葉を紡ぐ。
「その人は著名な作曲家でした。ですが彼女は才を極めた結果、禁忌の知識に触れてしまった。彼女は認知してしまったのです。特定の旋律が異界への扉を開け、忌まわしくも強大な存在と接続できると。そして彼女は自身のコンサートに訪れた人々の命を手土産に、神のもとへと身を委ねようとしました……」
ナタを自分の首にあてようとするおじいさんを、周囲の人が必死で止めている。その中には座間さんの姿もあったけれど、急に心臓のあたりを掴んでうずくまった。持病の発作だ。すぐにスミレさんが彼のそばに行き、小さなポーチから薬を取り出した。
「ここで思い出してください。あなた方はシスターに何と言われて本日を迎えましたか? 〝祭りの日の最後にはシスターがラッパを吹く。そのラッパは神様への道を作るためのもので、誰もその音色を聞いたことがない〟。――ああ、こうも言いましたね。〝皆さんは神の御下で一つになり、二度と愛する人と離れないですむのです〟……」
「シスター」
曽根崎さんが、ゆったりとした大きな動作でシスターに向き直った。
「単刀直入に聞きましょう。あなたは、ここに集めた方舟の人々を真の意味で〝神のもと〟につれていくつもりなのではありませんか?」
騒乱の中、祈るように両手を組んでシスターを見つめる人がいた。隣に立つパートナーの手を強く握る人がいた。我が子を抱きしめ、曽根崎さんの声が聞こえないように耳を塞いでやる母親がいた。
シスターは慈悲深い笑みを崩さぬまま、少しだけ困ったように眉尻を下げる。
「ええ、曽根崎さんの言うとおりです。神の御下へ行けば、方舟の皆さんは二度と愛する人と離れなくて済みますから」
その声は弦を弾いたように美しく響く。
「この世界は一人で生きていくにはあまりにも残酷です。だというのに、ここにいる皆さんは理不尽な運命に愛する人を奪われてしまいました。神がそれを許すはずがありましょうか。嘆く子らに救いの手を差し伸べぬはずがありましょうか。
否。神は私を奇跡の代行者として皆さんの前に遣わせ、愛する人を蘇らせたのです」
「いいや、蘇らせてなどいない。あれらはあなたが作った傀儡だ」
「違います。かの子らは一対象のニューロンの分子変化を読み取り特定の接続を誘引させる形而上的肉体です」
「何をごちゃごちゃと。相手の記憶を読んで目の前に再現する装置だったと手っ取り早く言えばいい。だがいずれにせよ、そこに人としての魂はないのだ」
曽根崎さんが大股で移動する。コツコツと革靴が音を立てる。大勢の視線が彼の挙動に吸い寄せられている。
「そもそも、人格や精神、魂とはどう定義されるべきでしょう。同じ肉体でも記憶のすべてを失ってしまえば別人と呼ぶべきでしょうか? 人格の同一性は身体的、精神的、どちらに依存すべきでしょう? イギリスの哲学者ジョン・ロックは個人のアイデンティティは意識にこそ根付くと言いましたが、客観的な観測でのみ定義した場合基準をどこに置くべきなのか――」
曽根崎さんは早口でまくしたてる。しかしここでぴたりと口をつぐんだ。自分に集まる視線をよく理解している彼は、低い声で告げた。
「これらはさぞ永遠の難題のように聞こえるでしょうが――とんだお笑い草です。なぜなら、かの者が当人と別人かどうかは、いたって簡単なテストで証明できるのですから」
そう言うと曽根崎さんは建物の影から黒い塊を引きずり出してきた。かなり大きくて、あちこちに妙な出っ張りがある。まるで、人間が胎児の形でうずくまっているかのような……。
「さあご高覧あれ! これは観測者であるパートナーの視線を遮断し、身動きを封じた方舟の一人です!」
ショックと困惑で人々が沸いた。当たり前だ。いくらなんでも倫理観が吹き飛んでいる。
だがもちろん曽根崎慎司はこれしきでは動じない。
「驚き喚き、抵抗するのが普通の人間の反応です。ですが黙りこくって人形のごとく身動きを取らなくなってしまったとしたらどうでしょう? ああ、恐怖のあまり動けないのではないかと疑うのはナンセンスです。見ていただければわかります。この者たちは、観測の目に晒された瞬間に何事もなかったかのように行動を再開するのですから」
大きな手が袋の口にかかる。ゴミ袋が大きくバランスを崩す。人々から悲鳴が上がる。
ああ、もう少しで、中身が見えてしまう。
答えが出てしまう。
――僕は、大きく深呼吸をして腕を伸ばした。
「何をしているのです!」
突然シスターの大声が飛んだ。僕は驚き、手に持っていたものを落としてしまう。それは地面を跳ね、ガシャンと金属質な音を立てた。
構うものか。すぐさまラッパを拾って走り出す。「追いなさい!」シスターの声が僕の背中を追いかけてきたが止まるわけにはいかない。
それを阻止したのは曽根崎さんだった。
「神器は我らの手にある! 帰りたい者は彼に続け! ここにあるのは生者の記憶を食み死者の形を取る汚物のみだ!」
彼は一気にゴミ袋の中身を人々に向かってぶちまけた。中から出てきたのは人骨混じりの土塊。物置小屋に放置されていた死体を詰め込んでいただけなのだが、そうと知らない人々を動揺させるには十分だ。
どよめきが広がっていく。それはすなわち、シスターと神への疑念が広まるのと同義だった。
「さあ、シスター二河。私と勝負をしましょう。すなわち、どちらがより多くの〝人〟を救えるのかを」
曽根崎さんはことさら大きな声で言う。ここにいる全員に聞かせるかのように。
「救いの手は、二つにあらずなのです」





