27 美しい時間
僕が目覚めた朝は、信じられないぐらい美しくて理想的なものだった。
「おはよう、景清君」
ベーコンが焼ける匂いと油が跳ねる音、優しい女性の声。
「今日はお寝坊さんだといけないわよ。なんたってお祭りの日だもの」
頬にあてられた柔らかな温もりにうっすら目を開けると、いたずらっぽい笑みで覗き込むスミレさんと視線が合った。胸がぎゅっと締めつけられると同時に、落胆に襲われる。僕は、彼女の瞳の向こうに地下のゴミ山を見ていた。
「……おはようございます。起こしてくださって、ありがとうございました」
「ふふ、かしこまっちゃってどうしたの? 親子になりに来てくれたんだから、もう少し砕けてもいいのよ?」
「でも……」
「いえ、無理もないわね。昨日、あなたが見たものを思えば」
スミレさんは自分の胸元に手を当てた。木でできた十字架が揺れる。
「私も、もしかしたらゴミでできているのかもしれない。そう思っているのでしょう?」
「あ……えっと」
「いいのよ。弘樹さんも昨日からぎこちないの。あなただけじゃない」
スミレさんは寂しそうに言った。その姿につい否定の言葉を口にしそうになったけど、思いとどまる。僕らはしばらく互いにうつむいていた。
「だけどね、景清君。私があなたと弘樹さんの幸せを心から祈っているのは本当よ」
また頬に温かなものが触れる。顔を上げて目にしたのは、切なげなスミレさんの微笑と――
彼女のものと同じ、木彫りの十字架だった。
「ようやく完成したの」
まばたきをする僕に、僕の片頬を包んだスミレさんはくすぐったそうに笑う。
「景清君が、愛する人とずっと一緒にいられますようにって。そう願いを込めて作ったわ。押しつけがましいかもだけど……」
「押しつけがましいだなんて、そんな」
「あら、じゃあ受け取ってくれる?」
自分の目が泳ぐのがわかった。曽根崎さんの声が蘇る。
『そんなに君は〝家族〟からの〝十字架〟がほしいのか?』
次いで、母親の失望した声と父親の怒鳴り声が――いや、それはシャットアウトした。僕は、ふくよかな手のひらに乗った十字架をじっと見ていた。
僕という人間は、これを受け取るのか?
「……はい」
右手が動く。五本の指が広がる。スミレさんの手に乗った軽い十字架を、慎重に摘んだ。
「大切にします」
口が僕のものじゃないみたいに動いていた。だけど、これは僕の意思だと自分が一番わかっていた。
スミレさんは案の定大喜びしてくれて、僕の胸にまた何かが沈殿したようだった。
お祭りといっても、集落にいる人数でやるのだ。そう大した規模じゃない。だけど互いに知った者同士でやるからこそ盛り上がり、温かみがあるものになる。
美味しそうな匂いがあちこちから漂っている。聞こえてくるのは、楽しげな笑い声と弾んだ会話だ。そんな中を、僕は座間さんとスミレさんと一緒に回っていた。
「その十字架……」
ふと、座間さんが僕の胸に目をとめた。
「スミレから貰ったんだね。よく似合ってるよ」
「そうでしょう、あなた! 景清君にあげるんだもの。少しでも綺麗になるよう時間をかけたのよ?」
「最近の妻は、一人になるとうたたねをしてしまうらしくてね……。自分が作っている間は見ていてくれと頼まれることもあったんだ」
「まあ、そんなことまで話しちゃ嫌だわ!」
スミレさんは頬を染めて軽く座間さんを叩いた。仲睦まじい光景に頬が緩みそうになった僕だけど、誰にも見られていないと動きを止める人の話と、昨日の座間さんの呟きを思い出して引き攣ったような笑い方になってしまった。
「ほら、景清君」
どうにか自分の顔を隠そうと苦心していると、座間さんに焼きおにぎりを差し出された。
「男の子なんだし、しっかり食べておくといい。あっちには甘味もあったよ」
「あ、でもお昼を過ぎてからは私達が唐揚げの屋台をやるの! そっちも食べられるようにお腹を空けておいてね!」
「はは、きっと大丈夫さ。景清君はいつも君の料理を喜んで食べてくれるんだから」
「そうかしら。今日は料理上手がみんな腕まくりして作ってるのよ? 負けちゃいそう……」
「心配しなくてもいい。そうだろ、景清君?」
「は、はい」名前を呼ばれて、どぎまぎしながら頷いた。「スミレさんの料理は、いつも美味しいです」
「まあ、嬉しい! 景清君のためにたくさん取り置きしておくわね」
「あ、ありがとうございます」
「ほら言ったとおりだったろ? ……おお! 今から大道芸をするようだ! 道野さんだな。行ってみよう」
「それが終わったら合唱だったわね。一緒に聞きましょうね、景清君」
「だったらそれまでに腹ごしらえをしておかないとな」
「私が調達してくるわ。先に二人で大道芸を見てて」
「ああ、ありがとう」
――穏やかな時間だった。優しい二人に囲まれて、同じものを食べて、同じものを見て、他愛のない感想を言い合って。
なのに、僕はずっと泣き出しそうだった。胸の内で幼い僕が喚いていた。こんな時間の中で生きていたかった。そうやって優しくされたかった。
あなたたちみたいな人が両親だったらよかった、と。
胸の上で十字架が揺れる。手で押さえつける。曽根崎さんの顔が浮かんで、苦しくなる。
酷く悪いことをしている気がしていた。この人達を、騙しているような。
なぜそう思っていたのかはその時はわからなかった。けれど、僕が望む望まないに関わらず、その答えはまもなく判明することとなる。
「皆さん――今日までよく準備をしてくださいました。お陰で、私達は今日という日を心から楽しむことができました」
時間はあっという間に過ぎて、今。教会の前にシスターが立ち、両手を広げている。首からさげているのは、あのラッパだ。
「思えば、皆さんは他の方々よりずっと傷ついてこられた方でした。なぜなら、永遠に共にいたいと願った人と残酷な形で引き離されてしまったのですから。そうした中で生きるのは、並大抵のことではなかったはず。針の上を歩くかの如き苦しみの日々――。ですが、神はあなた方を見捨てませんでした」
誰かのすすり泣く声が聞こえる。見ると、数日前ナイフを振り回していた男性が若い女性に支えられてうつむいていた。
「もう心配は無用です」
「皆さんは神の御下で一つになり、二度と愛する人と離れないで済むのです」
シスターの手がラッパに伸びる。人々は期待と恍惚を目に浮かべて彼女に見入っている。座間さんも、スミレさんも、みんな、みんな。
――夜をそのまま抜き取ってきたような、この男以外は。
「さて、それはどうでしょう」
よく響く低い声だった。教会の中から現れたのは、不吉な腐臭を漂わせる長身の男。
幾人かの顔が嫌悪に歪んだにも関わらず、彼はにぃと口角を上げた。
「思考放棄の諸君においては、ぬるい御伽噺の一頁に手をかけているつもりで済んでいるのかもしれません。それはまことに幸いなことです。知ってのとおり、真実は必ずしも幸福に付随しないものですから」
何をするつもりだろうか。否、僕は知っている。めちゃくちゃにするつもりなのだ。祭りだけではない。ここにいる人々の認知までも。
――彼の名は曽根崎慎司。怪異の掃除人なのだから。
「それでは、ここでひとつ皆様に疑問を呈します」
真っ黒なシルエットは、大きく片腕を広げた。耳に心地よいのに不安を掻き立てる声がこの場にいる全員を支配する。
「そこにいるのは、本当に、あなたの愛する人と同一なのでしょうか」





