26 テセウスの船
――シスターの手にラッパが戻ってから数時間後。集落は、何事もなかったかのような活気と落ち着きを取り戻していた。
明日はいよいよお祭りだ。準備のため言葉を交わし合い、助け合い、少なくとも僕――竹田景清の目には、理想的な組織のありように見えた。
だけど僕には、まるでミルクの中に墨汁が一滴落とされたように、不穏が徐々に広がっていくのを感じていた。
「ねぇ、この電球はどこに飾りつければいい?」
「あ、ああ。そうだな……俺にはわからないから、芦屋さんに聞いてくれないか?」
「わかった、ありがとう」
にっこりと微笑み、足取りも軽やかに女性が駆けていく。けれど彼女の後ろ姿を見守っていた男性は、肩を落としうつむいていた。あの男性は、地下で僕を羽交い締めにしていた一人だ。そうか、女性のパートナーがいたんだな。
彼も知ってしまったのである。彼女の中身もまた、ゴミでできているのだと。
そして、そんな不安はこの人にも伝染していた。
「景清君」
座間さんの声に振り返る。彼の顔は、たった数時間でかなりやつれたようだった。
「隣、いいかな」
「ええ、どうぞ」
僕が促すと、座間さんはゆっくりとした動作で座った。風雨にさらされた木製のベンチだけど、比較的新しいのかそこまで風化している様子は見られなかった。
「……ショックだったろう」
重苦しい口調で、座間さんが切り出す。
「慎司君も……君の目の前であんなことをしなくてもよかったのに」
その一言に、僕は固く目を閉じた。たとえ配慮された言葉だろうと、僕に当時の記憶を蘇らせるには十分だった。
「――ところで、シスター」
地下。阿蘇さんの手からラッパを回収した曽根崎さんは、くるりとシスターに体を向けた。
「あなたの手で三度蘇ったとはいえ、残虐行為に及んだ直和に何の罰も与えられないのは不適切では? 集落の人々も、贖罪なくして彼を仲間と認めるのは難しいでしょう」
「はぁ!? お前話が違……!」
「そこで、提案があります」
声を荒げる阿蘇さんに、曽根崎さんは至って冷静に顎に手を当てている。
「ここは、忠助君に全ての罰を引き受けてもらうことで手打ちとしませんか?」
「全ての罰を?」
「ええ。忠助君に、本来直和が受けるべきだった一度目の死を与えるのです」
僕の喉から「うあ」と声が漏れた。頭の端から麻痺が侵食していく。曽根崎さんの言葉が意味するところの理解を、僕の脳はまだ拒否していた。
「加えて、忠助君にはラッパを盗んだ罪もありますしね。思想の問題もあるようですし、ちょうどいいかと。ああ、直和なら問題ありませんよ。忠助君さえいれば大人しくなるでしょうから」
「なるほど……。皆が幸福になれるひとつの手段ではありますね」
「でしょう。さて、あなた方と彼を同じ存在にさせるには、何が必要になりますか?」
「骨です」
一瞬、シスターの目がビー玉のように無機質になった。
「骨です。骨が一番いいのです。骨は不純物が少なく、最も神が宿りやすいのです」
「わかりました」
シスターの違和感に気づいているのかいないのか、曽根崎さんは頷いて辺りを見回した。一人の男が集団の中から進み出る。彼は、手斧を持っていた。
「そ……兄さん! やめてください!」
ここでやっと僕の口から言葉が出た。だけど曽根崎さんは手斧を受け取って、阿蘇さんの元へ戻っていた。
阿蘇さんは、藤田さんを後ろに庇ったまま凄まじい眼力で曽根崎さんを睨んでいる。
「ふ……な、直和兄さん! 起きてください! 忠助さんが殺されます! 直和兄さん!! 慎司兄さん! やめて! やめろ!!」
「忠助君、いいな? 腹部の内臓の多い部分を狙う。苦しいだろうが直和のためだ。そのあと、君の息があるうちに左手の小指を落とす」
「やめてください!! 聞こえねぇのか!! 誰か、誰か助けて……!」
藁を掴むような気持ちで周囲を探し座間さんの姿を見つけた。けれど彼は蒼白な顔を前方に向けるだけで、僕の叫びになど気づいていなかった。
だったら僕自身が止めるしかない。そう思ったのにますます強く押さえつけられて、ついに少しも身動きが取れなくなった。僕の両側の人々の顔を覗き見る。彼らも座間さんと同じで、これから起こることを一秒たりとて見逃すまいとしているようだった。
頭が熱い。人数過多の地下室で僕の悲鳴がわんわんと反響する。手斧が振り下ろされる。僕の悲鳴が、肉と骨の潰れる嫌な音に混ざった。
「慎司君も忠助君も、君を守ろうとしたんだと思う」
頭を抱える僕の右側から、座間さんの声がする。
「君にとっては特にショックが大きいね。だけどここはとても閉鎖的な島だ。裏切りとも呼べる行為をしたあの二人をもう一度仲間として迎えるには、ああするしかなかったんだろう」
「忠助さんを、殺すしか?」
「殺していない。彼は死んでいないからだ」
座間さんの声に力がこもる。どちらかというと、僕よりは自分自身に言い聞かせているようだった。
「仲間になったんだよ、景清君。これでもう忠助君も直和君も離れ離れになることはない。ずっとみんなで一緒にいられるんだ」
「本当に同じ忠助さんですか? ゴミの塊じゃないんですか?」
「いいや、忠助君だよ。テセウスの船というパラドックスを聞いたことは? 一艘の船の一部分が壊れたからといって次々に部品を交換した結果、最初の船にあったものは全てなくなってしまった。果たしてこれはまだテセウスの船と呼べるだろうか、といった問題だ。同一性を問うものだね」
「つまりどんなに部品を交換して別物になってたとしても、まだテセウスの船だと座間さんは思ってるんですか?」
「そうとも。外観は全く変わらず、機能も同じ。ならば、どうして部品について言及する必要がある?」
ふと声がくぐもる。顔を上げて隣を見ると、座間さんが両手で顔を覆っていた。ともすれば聞き逃しそうなほど小さな声で、言う。
「……ああ、」
「なぜ、中身を見せたんだ」
「……」
僕は正しい言葉が何も思い浮かばなくて、唇を引き結んで正面を向いた。
少し遠くでは、阿蘇さんと藤田さんが楽しそうに笑い合いながら祭りの準備を手伝っている。見ていられなくて、僕はまたうつむいた。
そして。
その晩、曽根崎さんと会いたくなかった僕は座間さんの家に泊まって、翌日。とうとう、祭りが始まった。





