21 救われなければ
「――良いですか? 私達は人を救う存在でなければならないのです」
ある男の耳に、落ち着いた女性の声が届く。彼はそれをシスターの声だと認識した。
「ですので、彼もまた救わねばなりません。何から? ……耐え難いほどの悪夢からです」
藤田はゆっくりと頭を起こした。が、ズキッと走ったこめかみの痛みにまた顔をしかめる。
「あら、まあ」
その挙動で気づかれたのだろう。異臭を伴う暗闇の中、藤田のもとに誰かの足音が近づいてきた。
「心配いりませんよ。またすぐ眠りに落ちますから」
その声の言うとおり、不自然なほど急激な眠気が藤田を襲った。目を開けているのがやっとなほどに。
「さようなら」
シスターは、やはり慈愛に満ちた声で言う。
「人は皆、救われなければならないのです」
そうだね、と頭の片隅で曖昧に答えたのは、彼のせめてもの抵抗だったのかもしれない。
次に気がついた時、藤田は瓦礫の中に体を横たえていた。
「ここは……」
錆びた鉄の臭いがする。何やら体の下がごつごつとしていて、非常に寝心地が悪い。ひとまず立ち上がろうとした藤田だったが、左手をついた瞬間触れたぐにゃりとした感覚にバッと跳びのいた。
手の下にあったのは、死体だった。死んで間もないのかまだ温かく、服の裂け目からどくどくと流れる血が廃材を汚している。半分開かれた目はどんよりと濁り、損傷した頭部からは脳の一部がこぼれていた。
息が止まる。藤田は、その死体の名前を知っていた。
「景清……」
声にならない声で呟く。だが当然返事などあるはずもない。依然、藤田の前には死体が転がるだけだ。
「……」
――これは、夢だ。
どうにか正気を保った藤田は、景清の死体から目を逸らした。けれど逸らした先にあったのもまた死体。周辺一面、無数の死体が埋め尽くしているのだ。そして、そのどれもが藤田にとって見覚えのあるものだった。大学で出会った人、アルバイト先で出会った人、教団の施設で――。
「……」
歯を食いしばり、瓦礫の山から立ち上がる。――これは悪夢だ。現実じゃない。そうわかっているにも関わらず、肌にまとわりつく湿気を孕んだ空気や腐臭は着実に藤田の精神を蝕んでいた。
足を踏み出す。踏んだ骨が足の裏で折れる。幼いこどもの膝の骨だった。かつて自分が所属していた教団の信者の息子だった。
歩くたびに。歩くたびに足の裏で知人の肉や骨が潰れた。それはやがて断末魔の悲鳴を伴うようになった。耳を塞ごうとはしなかった。たとえそうしても聞こえ続けると知っていた。だから藤田は歩みを止めることなく、うつむきあてどなく進んでいた。
――まるで、あの頃の自分の心情を体験しているようだ。
ここじゃないどこかに行きたかった、あの頃の自分の。
自らが踏み潰す命を無視して、ひたすら生きようとしていた頃の。
「なるほど、君の過去の行動についての正当性は疑問なところだ」
ふいに聞こえた声に藤田は立ち止まる。聞き覚えのあるものだとしても、藤田はそちらを振り返ることはできなかった。
「想像できなかったはずはない。それでよく自分自身の幸福を得ようなどと思えたものだ」
皮肉めいた口調のその人は、いつも正しく自分を指摘した。だからこの世界でも、正常さの化身として現れたのかもしれない。
それでも言い返さずにはいられなかった。
「……あなたも共犯でしょう。曽根崎さん」
「私はアドバイスをしただけだ。実行したのは君だよ」
「だとしても十分教唆の範囲内です」
「はは」
少しも笑っていないとわかる、わざとらしい笑い方だ。声の大きさと方向から考えるに、曽根崎は自分の背後一メートルほどに立っていると藤田は判断した。
「――だからなんだ? 君が阿蘇忠助から普通の人生を奪ったことに変わりはないだろう」
憎しみに満ちた声に、藤田は思わず振り向いた。そこに曽根崎はいなかった。代わりに、頭を破裂させた死体が、地面にべったりと張りついていた。
「……阿蘇」
顔を視認できないにも関わらず、藤田はその名を呼んでいた。事実それは阿蘇の死体だった。脳に取り憑くおぞましい昆虫に寄生された阿蘇の成れの果ての姿。
気づけばそこらじゅうにある死体全てが阿蘇になっていた。腹部を血まみれにして倒れているのは、同僚に刺されて助からなかった彼だろう。凶悪な拷問を受けて人の形も保てぬまま息絶えている彼もいる。
「違う……」
掠れた声で否定する。全身雨に打たれ、流す血も無くなった阿蘇の目がこちらを見ている。
「違う違う違う!」
阿蘇の死体が増えていく。誰も彼も藤田を見ている。責め苛んでいる。
「やめろ! 違う! 違う、ちがう……!!」
目を背けたいのにそうできない。ここが悪夢の世界だからだろうか? わからない。悪夢とはいえ自分の脳が作り出したのならそれは現実と地続きの地獄なのではないか?
わからない。わかりたくもない。
――死体の山の中から、ふらりと一体の影が立ち上がった。
「ッ!」
藤田の視線がその影に釘付けになる。その影もまた阿蘇だった。ただし、他の死体とは違って傷の一つもなかった。
「藤田」
血の気のない顔をした阿蘇は、一歩一歩藤田に距離を詰めてきていた。藤田は足が縫い付けられたかのようにその場から動けない。
「なあ、これ以上こんな場所にいるこたねぇよ」
阿蘇は微笑んでいる。藤田のよく知る笑みだ。
「一緒に行こうぜ。お前にとって生きることなんざ、地獄を歩くも同じだろ」
瞬間、堰を切ったように藤田の目から涙があふれたのである。
ああ――そうだ。そうなのだ。
自分はこれまで与えられた責務を放り出して生きてきた。何もかも捨てて逃げ出し、踏みつけてきた。正しいと思ったことはない。そうするしかなかったと叫び続けてきた。
その身勝手のなかで、阿蘇を巻き込んだ。
到底解決できない問題に引き込んだ。理解を求めた。すがりついた。およそ弱者の取る手段全てを使って、阿蘇を引き止めた。
そんな自分に、阿蘇は全て応えてくれた。
――藤田の目の前で、自分に差し出された手が揺れている。
「お前だって、救われるべきだ」
そう言った阿蘇の笑みには、藤田にとっては目が眩むような正しさと神々しさがあった。
藤田の右手が、音もなく持ち上がった。





