20 朝の不穏
迎えた朝。あまり眠れなかった僕は、窓から差し込む太陽の光に目をしぱしぱさせていた。
「眠れなかった? 妙だな。昨夜の君は布団に潜り込むなり一切の返事をしなくなっていたが」
「そういえばお布団に入ったあとの記憶がありませんね……」
行方不明になった藤田さんのことも、ラッパを持って彼を探しに行った阿蘇さんのことも心配だ。けれど僕も狙われている可能性がある以上、表立ってサポートはできない。ままならない思いを抱えつつ朝の支度を済ませ、ひとまず座間さんに挨拶しようとドアを開けた。
「うわ」
どんと誰かにぶつかる。昨日物置小屋の近くで会った人だ。すぐに謝った僕だったが、相手はこちらを一顧だにせず歩いて行ってしまう。うろうろ、のたのた。覚束ない足取りで、しかし突然つまずいたかのように倒れ込むと、そのまま手に持っていた木の棒でがりがりと地面を掘り始めた。
その顔からは人らしい知性は感じられなかった。目は宙を泳ぎ、口は半開きで、その端からは涎が落ちている。
だがそうなっていたのはその人だけじゃなかった。周りを見れば方舟中の人が外に出てきていた。あてどなくさまよい、突発的に奇妙な行動に出る。それはまるでゾンビのように見えた。
そういえば、ひどく騒がしい。当然だ、奇行に走るパートナーを前にしてどうして平常心でいられようか。怒号、悲鳴、懇願、泣き声。強い負の感情が昨日まで楽園そのものだった集落を満たしていた。
「景清君!」
突然声をかけられ、飛び上がる。座間さんだ。相当取り乱しているのか、髪はぼさぼさで顔は蒼白だった。
「ゆ、ゆうべから何が起こってるんだ? スミレがいきなり家を出ていったかと思うと、シスターと一緒に家中のものを外に放り出して荒らし始めたんだ。それからずっと家には帰ってこず、ああしてラッパを探していて……」
彼はごくりと唾を飲み込む。それから僕に顔を近づけて、声量を落とした。
「……まさか、君達がラッパに何かしたのか?」
ゾクッとした。彼の声にある種の疑念が含まれているのは当然だろう。でも、僕が感じたのはそれだけじゃない。
彼の声には、僕に対する明確な敵意と憎しみが込められていた。
もし僕がラッパを奪い他者に渡したと言えば、昨日までの好意や親しみは一気に地に落ちるのだろう。それだけで終わればまだいい。もしかすると、事実を知った彼はなりふり構わず僕らを糾弾するかもしれない。そう思わせるだけの凄みが、今の座間さんにはあった。
「いえいえ、とんでもない。むしろ我々も困り果てているぐらいなのですよ」
頭が真っ白になって硬直する僕に助け舟を出してくれたのは曽根崎さんである。悠々と部屋から出てきた彼は、あれほど剃るように言った無精髭を撫でて言った。
「弟の直和と彼のパートナーである忠助君が揃って帰ってこないのです。手を尽くして探そうと思ったのですが、いかんせん気づいたのは夜のこと。まさに今から捜索するところでした」
「二人が、行方不明?」
「はい。座間さんに心当たりはありませんか?」
「いや、生憎……」
座間さんは嘘は言ってなさそうだった。だけどふいに僕は気づく。
外に出ていた島民の人々が、全員足を止めていると。そればかりか、全ての視線が僕らに注がれていることを。
「さて、どちらに行ったのでしょうねぇ」曽根崎さんはあえて大袈裟な身振りで頭を振った。「といっても、そう広くない島でのことです。すぐに見つかると思うのですが。――ああ、これでラッパが消えたことと二人がいなくなったことが繋がった! あの二人がラッパを盗んだ犯人に違いありません!」
「なんと……!」
「彼らは方舟に来たばかりでタブーを知りません。軽い気持ちで演奏してみようとラッパを持っていったところ、おおごとになってしまったがゆえ怖気づき隠れているのでしょう。いずれにせよ、二人を見つけて問いただせば判明することです」
一人、また一人と僕の視界の隅から方舟の住民がいなくなっていく。明確な目的ができたからだろう。阿蘇さんと藤田さんを探しに行くに違いない。
――あるいは、住民達自身が誘拐した藤田さんのもとに?
こっそりあとをつけてみようかと思い、曽根崎さんに目配せする。上手くいけば、藤田さんの居所を突き止められるかもと思ったからだ。
でも、肝心の曽根崎さんはこっちを見ていなかった。なんでだよ。見ろよ。
「……弟の尻拭いをするのも兄の務めです」
僕から目を背けたまま、曽根崎さんは座間さんに言う。
「必ず見つけてお灸を据えてくれましょう。なぁに、方舟の一員となった今なら当然のことです」
「は、反省さえしてくれたらいいんだよ? 手荒な真似は……」
「お気になさらず。二度と不埒な真似ができぬよう、ギッタンギッタンにしておきます。ところでそのことについてシスターと話をしたいのですが、彼女は?」
「そうだな……教会にいるんじゃないかな。神に祈りを捧げる時間だから」
「ありがとうございます」
少し引き気味の座間さんを放置して、曽根崎さんはやっと僕のほうを向く。そうして僕を促して一旦家の中に入った。
「……景清君」
「はい」
「これから私が行うことには、何一つ口出しをするな。たとえ君の倫理に則っていなくてもだ」
「え」
背を向けた曽根崎さんは、何やらゴソゴソと荷物を漁っている。
「そ、曽根崎さんは、何を……」
「君は気にしなくていい。だが……」
取り出したのは、ツクヨミ財団から預かっていたレーダーだ。それをジャケットのポケットに入れると、彼は立ち上がる。
「私の行動の全ては君を守ることに繋がる。それだけは、覚えておいてくれ」
「……」
わかりました、と素直に言えなかった。――この人がここまで言うなんて何をする気だろう。不穏な胸騒ぎに、僕は自分の服の真ん中あたりをギュッと握っていた。





