番外編 記憶喪失の彼と暮らすこと3
それから数日間は、景清君の精神が不安定なこともあって何かと試行錯誤する時期だった。なんせ少しでも自分が一人になりそうだと察すると、泣き出しそうな顔をするのである。トイレの前までついてこられた時点で、事務所を再開するのは諦めた。
といっても、もともとさほど客の多くない〝探偵業〟だ。金に余裕もあることだし、彼が落ち着くまでは休業でいいだろうと判断したのだが――。
「やあ、ガニメデ君! 記憶を失ったことで、いよいよ天使と見紛うばかりの存在になっているそうじゃないか! これはこの僕が選びに選んだお菓子とぬいぐるみだよ! 存分に堪能してくれたまえ!」
「こんにちは、曽根崎さん、景清君。なかなか大変な時だと思いますが、周りの人を頼って乗り切ってくださいね。私も微力ながらお力になりますので。こちらささやかですが、宅配弁当の無料チケットとぬいぐるみです」
「よー、曽根崎ィ。佐倉先生のお使いで様子を見に来たぜ。こっちは薬。用法用量守って飲みな。そんでこっちは、僕んちで持て余してたぬいぐるみだ。いらなきゃ持って帰るけど、今の子分君が気に入るようだったら貰ってやってくれ」
「景清ー! お前のことが大好きなこの世にたった一人の叔父さんだよ! 今日もかわいいね、お土産たくさんあるからね、ほらこれぬいぐるみ!」
「景清! このボクがまた来てあげたわよ! 見なさい、とってもかわいいぬいぐるみ見つけちゃったの! この子、この間の猫ちゃんと並べたら絶対素敵なんだから!」
彼の訪問客がのべつまくなし現れるので、落ち着く暇などなかった。念のためことわっておくと、最初から田中、六屋さん、烏丸先生、藤田君、柊ちゃんである。景清君は控えめながらも嬉しそうにしていたが、やはり気疲れしてしまうのだろう。彼らが帰った後はきまって動けぬほどにぐったりとしており、布団にくるまっていた。
「曽根崎さん……」
「……」
そして、彼に遠慮がちに呼ばれて私も寝室に向かうのである。彼専用と化したベッド(もっとも、これは以前からだったような気もする)にはところ狭しとぬいぐるみがひしめいているが、まだ一人では寝られないらしい。よって私は、彼が無事に寝つくまで共にいてやらねばならなかった。
「すいません、いつもお願いしてしまって……」
「気にするな。諸々を忠助に任せてるから、他にやることもないし」
「ありがとうございます。もっとしっかりして、早く阿蘇さんの負担を減らさなきゃ」
「私は?」
何もしていない自覚はあるが、頭から除外されると心外である。そりゃティッシュを二回洗濯機にかけた時点で、忠助からは戦力外通告を受けたが。
「今日は……田中さんと藤田さんが来てくれましたね」
「そうだな。ああいうの、君に負担なら別に断ったっていいんだぞ」
「いえ、来てくれるのは嬉しいんです。お話しするのは楽しいですし。ただ……どうしても、前の僕ならどんな対応をしたんだろうって考えちゃって」
「君は君だ。どうなろうともそれは変わらない」
「……はい」
布団から少しだけ顔を出した景清君は、私に向かって申し訳無さそうに微笑んだ。
――彼の記憶がなくなったのは、私のせいだと忠助から聞いている。気を失った私を守るために景清君がたった一人で脅威に立ち向かった結果、精神的ショックによる健忘症に陥ったのだと。
責任を感じないわけではない。どの口で彼を励ませたものだと考えないではない。けれど、私が意識してしまえば、彼にいらぬ気苦労を与えるだけだろうともわかっていた。
「……大丈夫ですよ。僕が記憶をなくしたことは、気にしないでください」
まるで心を読んでいるかのように、彼は言う。前から人の感情に敏い傾向はあったが、今は特に研ぎ澄まされていると感じていた。
「本当に大丈夫なんです。だって、こうして二人とも生きてますから。あの時のことは覚えていませんが、僕の行動は間違いじゃありませんでした」
「……そうか」
「多分、記憶を失う前の僕もそう言うと思います」
不透明な態度を貫くために、黙って首を横に振る。景清君はまた微笑むと、布団に入り直した。
「それに……今の生活も楽しいですし。曽根崎さんには迷惑をかけてしまっていますけど、僕は、こういう日が続くのもいいなと思っています」
「……」
「これは、前の僕もそう言うかな。それとも退屈だって言うでしょうか?」
「どうだろう。むしろ――」
――望んでいたんじゃないか。
そう言いかけて、はたと口をつぐんだ。――望んでいた? どうして? 無論、共に生活することを望んでいたという意味ではない。仕事のことだ。イレギュラーだったのは景清君の身に事故が起きたあの一回だけで、あとは今とそう変わらない毎日を送っていたんじゃなかったか?
何かを思い出しそうになる。緊張に指の先が強張っている。嫌な予感がしたのだ。たとえるなら、決して開けてはいけない箱を目の前にして、その錠がひとりでに外れるのを見ているかのような。
(そうだ……考えてみれば、私も妙だ)
胸の内に湧き上がった疑問に、口の中が乾いていく。感情を悟られないよう、あえて平坦な呼吸を保った。
(確かに景清君は、私を助けたことでこうなった。だからって、私は〝それだけ〟でここまで献身的になれる人間だったか?)
「怖い夢を見るんです」
しかしそう切り出した景清君の声に、些細な疑問は思考の向こうに追いやられてしまった。目を向けた彼は、遠くを見るように天井を眺めていた。
「僕と曽根崎さんが、言葉では言い表せないような恐ろしい何かと出会う夢です。曽根崎さんはすごく頼りになるんですけど、その何かと戦うたびに段々精神的に消耗していくんです。僕は……それが嫌でした。曽根崎さんが苦しむのも嫌なんですが、その……いつか曽根崎さんが、僕を忘れてしまうんじゃないかって」
「……」
「起きるたびに、『夢だった』ってホッとするんです。それで曽根崎さんを見て、『こっちが現実だ』って何度も確かめてるんです。なのに……全然気持ちが晴れないこととか、あって」
手に温かいものが触れる。私の人差し指は、景清君に握られていた。
「曽根崎さん」
彼と目が合う。枕の隅っこにまで寄って私のそばにいる景清君は、今にも涙の落ちそうな目で尋ねた。
「僕が眠ってる間に……どこかに行ったりしませんよね? 僕のこと、忘れてたりしませんよね?」
「大丈夫だよ」
「本当に? 約束できますか?」
不安ではち切れそうな声に、なんとか笑って返してやろうとした。しかしいつものように頬の筋肉が引き攣る感覚がしたので、うまくできていなかったのだと思う。
だから仕方なしに、言葉による手段に頼ることにしたのだ。
「ああ、約束する。君がいる限り、私はどこにも行かない」
「……」
ようやく景清君は安心したように息を吐いた。睫毛の多い目が、ぴったりと閉じられる。穏やかな呼吸が聞こえてきた頃、やっと私は肩の力を抜いて「はー」と大きく息を吐けた。立ち上がろうとしたところ、まだ人差し指を握られていたままだったのに気づく。少し間をおいてから、そっとほどいた。
寝室をあとにして、リビングの明かりをつける。テーブルの上にぽつねんと置かれた薬の袋に、目がとまった。
「……」
手に取り、パッケージから二つの錠剤を取り出す。口に含んでから、そういえば水が必要だったと水道に向かった。
気分が悪かった。酷く胸が苦しく、吐き気と頭痛まで伴っていた。
こんなにもタバコがほしいと思ったのは、久しぶりだった。





