番外編 記憶喪失の彼と暮らすこと1
うちの事務所にアルバイトに来ている竹田景清という大学生が、記憶喪失になった。
「極めて珍しい健忘の症例ですよー」
警察病院に勤める佐倉精神科医が、大きな腹を私に向ける。福耳をぶら下げた、いかにも患者に警戒心を与えないえびす顔。が、怒る時もこの顔が変わらないのである。その際の圧といったら、患者のみならず他の医師からも恐れられているほどだ。
「怪我や病気でないにも関わらず、全ての記憶が失われています。いえ、失われているというよりは、埋もれてしまっていると表現したほうが正しいでしょうねぇ。竹田さんは、一度教えたことならばまるでそこだけ思い出したかのように以後問題なく振る舞うことができます。それに、新しい記憶を保持する能力も失われていない」
「では……」
「ええ。この分なら、サポートする人さえいれば自宅で様子を見てもいいでしょう」
「ありがとうございます」
「ただし、もし曽根崎さんがサポートするなら条件がありますよ」
ゆったりとしたテンポを維持しつつも、少しずつ佐倉医師から発せられる圧が強まってくるのを感じる。私は身構えた。
「曽根崎さん、アナタはちゃんとウチから処方されたお薬を飲むこと! そして定期的に診察に来ること! 竹田さんも連れてきていいから」
「普通対象が逆じゃないですか?」
「こうでもしないとアナタ来ないでしょうが。あんまり駄々をこねるなら、次から座ってる椅子をこんにゃくにしますよ!」
「座りにくくなりそうですね」
「……もっとも、今の状態なら大きな問題はないかもしれませんがねぇ」
「?」
佐倉先生は、下がり眉を真ん中に寄せてカルテに視線を走らせていた。カルテというよりは、そこに挟んだメモを読んでいるように見えたが。
「それと、竹田さんを怖がらせるようなことはしないようくれぐれも気をつけることです。今の彼の脳は幼児のものだと言ってもいい。恐ろしい記憶が一つあるだけで思考を占めてしまい、我々の想像する以上の恐怖を与えるでしょう」
「わかりました。心得ておきます」
「いいでしょう。では、曽根崎さんを竹田景清さんの引受人として認めます」
そのカルテを私には見えない場所に遠ざけておいて、彼はまた私に向き直る。
「相当な根気が必要になりますよ。アナタも一人で抱え込まないこと。共倒れしてしまえば元も子もないですからね」
「わかりました」
「いつでもご連絡ください。サポートします」
佐倉先生は、ゆさゆさと腹を揺らして笑った。この先生、笑うタイミングが微妙に理解し難いのである。
「ここが曽根崎さんのおうちですか?」
そうして私のアパートに連れてきた景清君は、私の後ろに隠れながら恐る恐るマンションを見上げていた。仕草はこどものようだが力は成人男性のそれなので、腕に食い込んだ彼の指が痛い。
「おっきいですね……。曽根崎さん、お金持ちなんですか?」
「金があることは否定しないが、これはマンションといっていわゆる集合住宅の一つだよ。私の部屋はこの内の一室にあたる」
「じゃあ病院と一緒ってことですか?」
「まあ……そうだな」
自分の知っているものと近いとわかり、勇気が出たようである。景清君は表情を明るくしてドアに近づいたが、中から人が出てきた途端慌てて私の背に隠れた。「大丈夫だよ」と声をかけておき、荷物と一緒にマンションに引きずっていく。こうでもしないと、永遠に入りそうになかったからだ。
私の部屋にたどり着けば、さあ人心地がつく――とはならなかった。この部屋も、彼にとっては知らない場所なのである。
「……!」
初めての場所に連れてこられた猫のごとく、壁に張りついて固まっている。身の置き場がわからないらしい。ためしに指で心拍を測ってみると、ここでドリル工事でもしてんのかと疑うほどに速くなっていた。そこで私は荷物を漁り、景清君にあるものをかぶせたのである。
「わっ、暗い! そ、そそそそ曽根崎さん、どこですか!?」
「ちゃんといるよ。布団をかぶせただけだ。病院で使っていた、君の布団」
「お、お布団!? あ、ほんとだ……」
「知っているものがあればだいぶ違うだろう。落ち着くまでくるまっているといい」
「はい……」
「あと、これ」
「これは?」
「ぬいぐるみだ」
彼に手渡したのは、両腕で抱えられるほどの大きさのパンダに似た人形である。丸っこいフォルムは一応愛らしく見えないこともないが、ぬいぐるみにあるまじき目つきの悪さを有している上、なぜか腹部から臓物がはみ出ているため帳消しになっている。しかし景清君は「曽根崎さんに似てるから」とゲームセンターで取って以来、なぜかうちに置いていた。どこが似てるんだ。臓物?
「……このぬいぐるみは君のだよ。以前の君はモツ崎さんと呼んでいたかな」
「モツ崎さん……。とてもかわいいです」
「かわいいか?」
「あと、ふかふかです」
「タオル生地だからな。丸洗いもできるし、汚れても問題ない」
「この子、抱っこしても?」
「ああ、むしろしばらくそうしていなさい。きっと落ち着けるだろう」
少しだけ笑顔が戻った景清君は、ぎこちなくぬいぐるみを胸に抱いた。ぬいぐるみを利用した精神的ケアについての話も聞いたことがあるし、多少は緊張の緩和を期待できるかもしれない。そう思ったのだ。
「この部屋ならどこへ行っても構わないが、慣れないうちは不安だと思う」いそいそとぬいぐるみと一緒に布団にくるまる景清君に、話しかける。
「怖くなった時は、ぬいぐるみを抱いてそうしているといい。ところで君、腹は減ってないか?」
「だ、大丈夫です」
「そうか。トイレは?」
「大丈夫です」
「よし。なら私は荷物を取ってくるから、しばらくここに……」
「あ……」
ぐいと服を引っ張られる。が、すぐに自由になった。振り向くと、景清君が遠慮がちに手をさまよわせながらうつむいていた。
「す、すいません。大丈夫です。僕、ここにいたらいいんですよね?」
「……」
「じゃあ、ここにいます。待ってます」
そう言うと、景清君はごそごそと布団の中に潜り始めた。饅頭のようになるまで見守っておいて、ようやく彼の行動に合点がいく。スマートフォンを取り出し、弟に電話した。
「……ああ、私だ。すまん、そっちにいる人を一人こちらに寄越してもらえないか。いや、異常事態というわけじゃないが、私は動けなくて。……うん、タクシーの運転手には十分な謝礼を渡してある。……そうか、十五分ほどで着くか。ありがとう。伝えておく」
スマートフォンをしまい、震える布団饅頭の頭頂部を撫でる。ビクッと震えたあと、そろそろと隙間から形のいい目がこちらを覗いた。
「……い、行かなくていいんですか?」
「うん、行かない。ここにいる」
景清君の目が、申し訳無さそうに伏せられる。打ち消すように、わしゃわしゃと布団越しに頭を撫でた。
「すまん。早速君を一人にしてしまうところだったな。ただでさえ引っ越しをして精神的な負担がかかったろうに」
「……すいません」
「謝らなくていい。私には気を遣わなくていいから、君の感情や思ったことをどんどん教えてくれ。君が快適に過ごせるよう、私も尽力したいから」
「……」
景清の視線が、部屋へと向けられる。キッチンに留まり、リビングに留まり、更にその奥まで窺っている。それから、また私に戻ってきた。
「も、もう少し慣れたら」
「うん?」
「もう少しここに慣れたら……家事とか、たくさんお手伝いしますね」
「ああ、よろしく」
「はい!」
元気な声だった。けれどその手は、しっかりと布団と私を掴んで離さない。まあ気長にいくとしよう。忠助が来るのを待ちながら、私と彼は他愛のない話で時間を潰していた。





