22 僕の役割は既に別の
田中さんへの報告も終わり、僕と曽根崎さんは帰途についていた。椎名さんと片田博士の件は、まず財団のほうで方針を考えてから、追って僕らに伝えてくれるという。
夕焼けの中を歩く僕のお腹は、すっかり膨れていた。これなら夕食はいらないかな。そう思った僕は、夕食メニューの代わりに曽根崎さんに引っ越しの段取りについて相談しようとしたのである。
「僕の記憶を消したのって、わざとだったんですか?」
けれど、口をついて出たのは全然違う質問だった。曽根崎さんの足が止まる。僕も、いつの間にかその場に突っ立っていた。
「そうだよ」
平然とした声で、曽根崎さんは答える。
「私は君を種まき人から守るために、あえて全ての記憶を曇らせた。呪文の暴走と言ったが、あれは真っ赤なウソだ。私が発狂したのは事実だが、君に関することは何一つ間違えていない」
「それだけじゃないですよね?」
「……」
「曽根崎さんは、黒い男の登場に僕と同じく本気で狼狽えていました。極めつけにアイツの言った言葉です。『共に忘却の時へと』……とかなんとか。曽根崎さん、アンタ、僕と同じく自分の記憶を消してたんじゃないですか?」
「……ああ」
またしても、曽根崎さんは軽い調子で頷いた。その声色と表情からだけでは、彼の真意は読めない。
「君の言うとおり、私は自分の記憶を消していた。怪異にまつわる部分だけだがね」
「なぜそんなことを?」
「君を怪異という概念から遠ざけるためだ」
「やりすぎでは?」
「念を入れておくに越したことはないだろ。それに、有事の際への対処はしていた」
「リスクが大きすぎると言ってるんです。ただでさえ僕に呪文を使った直後なのに、その上自分にまで使うとか。いつ発狂してもおかしくないですよ。どうしてそこまでやる必要があったんですか?」
「……」
「まさかと思いますが、曽根崎さん……」
声が震えそうになる。――アンタ、平和な世界に戻ろうとしたんじゃないですか? 僕の役割を〝解読者〟から〝正気の錨〟へと上書きして、楔を打ち込んで。怪異なんて知らない世界に、僕と一緒に身を沈めていたかったんじゃないですか? そんなことを尋ねようとしたのだ。
「まさか、なんだ?」
「……いえ」
だけど、聞けなかった。わざと大きく息を吸い込んで喉の震えをごまかし、首を横に振る。
「なんでもないです」
だって、今更そんなことを確認して何になる? 曽根崎さんの前には黒い男が現れ、僕も怪異の存在を思い出したばかりか、〝解読者〟としての役割を受け入れてしまった。なんなら、以前よりも普通とは程遠い場所にきてしまったのである。
そんな今の僕が、曽根崎さんに「普通に戻りたかったのか」なんて聞けるはずがない。曽根崎さんの正気の錨であることを放棄した僕が――。
……うわ。
(あー……うわー……)
そこまで考えが至った瞬間、怒涛のような感情に押し潰されそうになったのである。――気づいてしまった。いや、うっすらと自覚してはいたのだ。けれど、「曽根崎さんよりは正気に近い場所にいる」「だったらその間だけでも僕が繋ぎ止めたい」と考えては、目を逸らし続けていたのである。
だけど、ついに突きつけられたのだ。僕は、自分で理解していた以上に、曽根崎さんの正気の錨でい続けることを渇望していたのである。彼の精神にとって、どうしても自分がなくてはならない存在でありたいと。
(……あーあ。見たくないもん、見ちゃったな)
二度と叶わない願いと、こんな感情を抱いた自らの浅ましさに打ちひしがれていた。黒い男の言葉を思い出す。『どちらを選ぼうとも、君は絶望することになる』
僕はあの時、曽根崎さんの正気の錨であるよりも、対等な立場で共に戦うことを選んだ。その選択に後悔はないし、ましてや選び直すなんてもってのほかである。でも、僕はもう曽根崎さんの正気の錨としては扱われない。そんな事実は胸にずっしりと重たくて、悲しかった。
「は!? なんで泣きそうな顔してんだ、君!?」
そして、曽根崎さんにドン引きされたのである。理由は絶対に言いたくなかったので、僕はぶんぶんと首を横に振った。
「ぶぬ……なっ、なんでも、ないです」
「なんでもないことないだろ! ちょっと変な泣き方出てるぞ!」
「べみゃばぅ」
「また出た!」
ギリギリ泣いてない。泣いてないったら泣いてない。強情にヘドバンし続ける僕に、根負けした曽根崎さんは肩をがっくりと落として息を吐いた。
「……私には気を遣わないでいいと言ったのに」
今の僕に彼の顔は見られないけど、優しい声だった。この一ヶ月の間に、何度も聞いた言葉だった。
「いや、私が悪いな。君も私が何か隠していると気づいているからこそ、不安になっているんだろう」
「ぐぎょ?」
「あれ、違うのか? まあいい。君には、私の考えを伝えておこう。一度しか言わないから、逃さず聞けよ」
顔を上げて見た曽根崎さんは、辺りをキョロキョロと見回していた。恐らく、周囲に種まき人の影がないか探したのだろう。
「誓おう。私の行動の全ては、君の〝解読者〟としての利用価値をなくすために繋がっていた」
曽根崎さんの真っ黒な瞳は、夕日に染まりながらもまばたきすらせず僕を見ている。
「そうすることで、種まき人のから君を守り、ヤツらの計画を遅らせようとしたんだ。君の全ての記憶を消したのは、他の記憶から解読者の記憶に結びつかないようにするためだ。どんな怪異事件も、解読者の記憶に紐付きかねないからな。そうした上で、君にとって必要な記憶だけ掘り出していた」
「……」
「つまりこの一ヶ月、私は君の記憶でマインスイーパをしていたと言っていい」
「わかりやすいのに最悪なたとえやめてください」
「椎名に割り込まれて地雷踏まれた時はマジでキレた」
「あれそういう類の怒りだったんですか?」
呆れたが、まだ肝心のところがわかっていない。夕日の眩しさで目が赤いのはバレないだろうとふんで、曽根崎さんを見た。
「でも、どうして曽根崎さんの記憶まで消す必要があったんですか? むしろ記憶があったほうが、マインスイーパの効率はいいと思いますが」
「そこだ」
曽根崎さんにビシッと指を差される。僕がその指を掴んで下に曲げていると、彼は続けて言った。
「ここから先は、私も上手く説明できる気がしない。よって感覚で理解してくれ」
「わかりました」
「なんとなく……なんとなくなんだが。私は、呪文と自分の意識が密接に結びついていると感じている」
「呪文と曽根崎さんの記憶が?」
「そう」曽根崎さんは奇妙な表情をしていた。彼にしては珍しく、自分の脳内の言語化に苦戦しているのだろう。
「要するに、君に呪文をかけた張本人である私が怪異の記憶を保ったままであるのは良くないと思ったんだ。口には出さずとも、もしかしたら影響を及ぼすかもしれない。そう考えた」
「はあ」
「かつ、私から離れれば君は元の記憶を取り戻すだろうとも確信していた」
「なんでですか?」
「呪文をかけた私が、君に記憶を取り戻さないでほしいと強く思っていたからだ」
「……」
つまり、曽根崎さんの記憶があるせいで僕もつられて記憶を思い出すかもしれなくて、でも曽根崎さんが僕の近くで「忘れたままであれ」と願っていたから僕の記憶もなくしたままでいられたのか? そんな、無意識の思考がすり抜けて他者に影響を与えているかのような……。
さっぱりわからなかったけど、とりあえず頷いておいた。曽根崎さんが、可能な限り誠実に僕に説明してくれたのだということは理解できたからだ。
「……咄嗟の案とはいえ、お粗末なものだったな、遅かれ早かれ、終わりが訪れる茶番劇だった」
曽根崎さんが歩き出す。僕も急いで彼の後に続いた。緊張していたせいか、手足が強張っていた。
「けれど、考えはしなかったと言えば嘘になる。もし……本当にこのまま、君と怪異から逃れることができたらと」
「……はい」
「が、そんな馬鹿げた考えがよぎったということは、やはり私の頭はおかしくなってたんだろう」
曽根崎さんが振り返る。その口元には、微かな笑みが宿っていた。
「君は、やはりその君がいいと思う」
表情と言葉に一瞬心臓が跳ねる。だけど、すぐに萎んでしまった。――曽根崎さんの言う〝その君〟は、もう以前の僕ではない。頭の中で騒ぐ記憶を無理矢理押さえつけ、曖昧に微笑み返す。そうして僕は、早足で彼の隣に並ぶのだった。
第7章 のたうつ霊の嘆きを聞け 完





