18 従えろ
むしょうに悲しかった。叶うなら彼も連れて行きたかった。だけど生きる場所が違う以上、ここから先は僕一人で進まねばならない。
思えば心底けちょんけちょんに言われたものだ。アイツ絶対カウンセラーに向いてないな。悩んでる相談者を執拗に追い詰めるんじゃない。
でも、目が覚めた。
意識を大量の情報に向ける。向こうも僕に気がついたらしい。この世界の支配権を喰らわんとすべく、冒涜的な記憶が一斉に触手を伸ばしてきた。僕を侵そうと、脅かそうと、ニタニタ笑いながら纏わりついてくる。
頭が割れるように痛んでいた。真っ赤な血の幻想がよぎる。柔毛のような細かい突起物の集合体に沈んでいく感覚に、どこともわからない筋肉が痙攣した。気持ち悪い。きもちわるい。今すぐ皮膚ごと自らの体を暴き、内臓という内臓を打ち捨ててしまいたくなる。
けれど、その思考すらも「必要ない」と堰き止めたのだ。僕は意識の中でまばたきもせず、その情報達を見つめていた。
――時間は巻き戻せない。起こってしまった事実はどうしようもない。いくら目を逸らしたところで、変わらずそこに在り続ける。
だけど、その先は自分で選べるのだ。
大きく深呼吸をする。思考を集中させる。――限界を忘れろ。考え続けろ。狂気をねじ伏せ、脳に酸素を送り続けろ。
従え! 僕は僕のために、知識全てを飲み込むと決めたんだ!
全身の細胞が熱と痛みに悲鳴を上げている。だけど耐えられた。僕が僕として生きるために必要なことだとわかっていたから、迷いはなかった。
『……俺が字を解読できるようになったら、ちゃんと君は曽根崎のもとに返してあげるからね』
ふいに、誰かの声がする。これは、椎名さんだ。
『俺、君や田中さんに憧れてるんだ。君らってば、当たり前のように人の心を想像して、人の作った社会の中に溶け込んでる。それってすげぇことなんだぜ? 俺みたいな人間にとってはね』
僕の頭の中に、椎名さんの声が響いている。記憶達は歓喜していた。……いや、僕の視界に映る文字列に共鳴しているのだろうか。そうだ、古代の記憶を取り込んだ今の僕は、この文字列を解読できるのだ。
『……曽根崎だけは、俺に似てると思って嬉しかったんだけどな』
――曽根崎さん。聞き馴染んだ名前に、僕の意識は身を乗り出していた。古の記憶達は、脳のリソースを取られてしまったのが不満なのかムッとしたイメージを送ってきた。そんな顔すんな。何回でも教えてやるけど、これ僕の体だぞ。
『でも違った。君が変えたのかな? 人は人によって変化するっていうしね。俺も君といれば何か変化が起こるのかもだけど』
そう言う椎名さんの声は、どこかやるせない感情が滲んでいる。僕はズキズキする頭を頑張って稼働させて、考えていた。
……僕は、椎名さんをある種の超人だと思っていた。表向きは明るいけど、曽根崎さん以上に人間味がなく、不気味な性質の人だと。言っちゃなんだけど、必要だと思えば一欠片の罪悪感もなく人を殺せそうな人だと感じていたのだ。
だけど、少しだけ違うのかもしれない。〝人〟といたくて、誰かのマネをしている。〝人〟になりたくて、人の中にいることをやめない。
『君はどう思う?』
この人は、ひょっとして酷くさびしがり屋なんじゃないか。
そんなことを思ってしまったのである。
――ああ、これもエゴだな。僕の勝手な決めつけによる、勝手な像の押し付けだ。慎司に聞かれたら、またコテンパンに皮肉を言われるだろう。曽根崎さんに話したら、鼻で笑って流すだろう。
けれど、僕はそう判断したのである。そして、この人に何かできないかと思ってしまった。
「え……?」
椎名さんの腕を掴み、彼の目を覗き込む。僕は脳内で、古の知識を引っ掻き回して情報を探していた。すると、彼らはすんなりと、ある映像を特定して示してくれた。居場所を与えたからだろうか、古の記憶達も協力してくれる姿勢らしい。
それを持って、全神経を椎名さんに傾ける。頭に浮かぶイメージを、そのまま椎名さんと共有する。どうしてこんなことができるのかはわからない。だけど今の僕にとっては、些細な疑問でしかなかった。
「……師匠?」
青い平原が広がる世界。オーロラが見下ろす空間に立つ老人を、僕は椎名さんに提示していた。これは、僕の想像と石の持つ記憶の合成である。石はあくまで彼がこの世界に足を踏み入れたことと、その世界にあるものしか知らない。だけど、僕の想像が正しければ博士の運命は……。
「景清君、これに対する説明を――!」
しかし、椎名さんが僕の意識に踏み込んでこようとしてしまった。咄嗟に拒絶する。この状態は意識が外に向けて無防備に開かれており、とても危険だとわかっていた。
意識を閉じる。古の記憶達も、せっせと記憶をしまっていた。っていうか、今更だけどこの記憶って何なのかな。多分普通の記憶ではないんだよね。
椎名さんはまだ何かを叫んでいる。でも、僕にはもう聞こえない。意識の疎通を遮断してしまったからではない。急速に近づいてきた、ヘリコプターの爆音のせいである。
……ああ、こんなことをする人は一人しかいない。
呆れと安堵がないまぜになった感情で、胸がいっぱいになる。安堵が少し多めだろうか。僕は拡声器越しの低い声を聞きながら、くたりと脱力したのである。





