13 エネルギーを発する穴
寒くてたまらなかった。僕はあの人を知らない。見たこともない。そのはずなのに、歯の根が合わないほどの震えを止めることができなかった。
「彼の名は、片田嘉久」
椎名さんは、僕の腕を掴んだまま食い入るように丘を見つめて言った。
「三ヶ月ほど前に行方不明になった、ツクヨミ財団所属の言語学者だ。俺の師匠でもある」
「そんな人が、なぜあんな場所に……」
「わからない。だけど、やっと見つけることができた」
耳元で風のうなる声が聞こえる。けれどそれだけだ。丘の上のおじいさんはあんなに大口を開けて苦しそうにしているのに、辺りはしんとした夜の静寂に包まれている。まるで、あの場所だけ空間を切り取られたかのように。
そこで僕は気づいた。夜なのに、どうしてはっきりと彼の姿が見えていたのかを。
おじいさんは、青く発光していた。いや、厳密には、透けた彼の体越しに青い光源が見えていたのだ。
「はっ……!?」
鈍い衝撃が腰を襲う。椎名さんの腕を振り払った僕は、勢いよく尻もちをついていた。
「何あれ、なんで透けて……!? ゆ、ゆうれ――」
「そう、幽霊。今の師匠は、そう呼ばれてもおかしくない存在かもしれない」
僕の反応を見越していたのか、椎名さんは冷静だった。
「なんせ一ヶ月前から姿が変わっていないんだ。太りもせず、あれ以上痩せもしない」
「でも、幽霊なんているはずが……!」
「その発言はおかしいな。君と曽根崎は、もっとグロテスクでありえないものを見たんじゃなかったか?」
そう指摘されては、口を閉じざるをえなかった。人の顔の皮を貼りつけた恐ろしい何かの姿を思い出した僕は、慌ててぶんぶんと頭を振る。
「……一ヶ月もここで調査してるんだ。いくら非現実的で認めたくなくても、事実だって思い知らされてる」
「椎名さん……」
「それなら、とっとと頭を切り替えてどうすべきか考えたほうが堅実だろ? 師匠を助け出すためにはね」
「片田さんを? けど、幽霊になってるならもう……」
「死んでるかもなぁ。でも普通、死体は苦しまないじゃん」
そう言うと、椎名さんは幽霊――片田さんに目をやった。椎名さんの外国人みたいに彫りの深い横顔にはなぜか人間らしい感情が見えなくて、僕は少し怖かった。
「ただでさえアリエナイ状況なんだ。こっちだって既成概念を排除し、ありとあらゆる可能性を考えるべきだと思う」
「可能性……ですか」
「たとえば、師匠が苦しむパターンに規則性はなかった。それなら師匠は生きてどこかに監禁されていて、リアルタイムで姿を映されているだけだとも考えられる」
「姿を映されている? そんなことできるんですか?」
「さぁね。だけど、穴の中心から正体不明のエネルギーが放出されているとわかっている」
椎名さんはタブレット端末を取り出して、僕に資料を見せてくれようとした。だけど、僕は片手を振って拒否する。ただでさえ頭痛が酷いのだ。この上、目が電子機器の人工的な光に晒されるのは辛かった。
「この不明なエネルギーは、黒い石を定位置に置くことで発生している。だけど、黒い石自体にエネルギーを生み出す仕組みはないんだ。すると、考えられる可能性はひとつ。黒い石に浮かび上がる文字に、エネルギー発生の秘密がある」
「でも……文字だけで、そんな力を生み出せるんですか?」
「本来ならできるはずがない。だけど、それが〝呪文〟であれば話は別だろう」
椎名さんの顔を窺い見る。彼は、真剣な目で僕を見据えていた。
「曽根崎や彼の弟、いわゆる呪文保持者が操る、呪文と呼称される音声言語。唱えるだけで因果不明の超常的な力を引き起こせるが、これまで対応する言語までは発見されていなかった。いや、発見されていたとしても結びつけられていなかったんだ。そこへきて、君が……ナイ様から、解読者としての任を与えられた」
また椎名さんに強く腕を掴まれる。固まる僕に、椎名さんはやはりどこか感情の見えない熱を込めて言った。
「だから頼む、景清君。たった一度でいい、思い出してほしいんだ。思い出して、黒い石に書かれた字を全て読んでほしい。そこから紐づければ、俺は他の字も解読できるようになる。君の任である解読者だって、俺が引き受けられるかもしれないんだ」
「僕の解読者の任を……椎名さんが?」
「君は曽根崎と一緒にいたいんだろ? でも、その曽根崎は何にも知らない君をそばに置きたがってる。じゃあ解読者なんて大役、君には迷惑なだけのはずだ」
……そう、なんだろうか。本当にかつての僕は、そんなふうに考えていたのだろうか? 胸の内に問いかけてみても、夢に出てきた窓越しの真っ黒な影が頭の中で笑うだけで全然まとまらない。
――『しかし無論、この道は曽根崎の正気の錨である今の役割を捨てることにほかなりません』――
「なあ、お願いだ。君だって、曽根崎が俺の師匠と同じ目に遭ったなら、そうするだろ?」
選択ができずに迷う僕の体を、椎名さんが揺さぶった。
「これでも考えたんだ。田中さんなら、曽根崎なら、君ならどうするだろうって。正義とは何か、どうすれば正しいとされる結果に繋がるのかって」
「なんの……話ですか……?」
「俺は導き出したんだ。これが一番合理的で、倫理的で、近道だと。俺はもうツクヨミ財団にはいられないけど、いつか結果が見えればきっと田中さんもわかってくれると思う」
椎名さんの目が、彼の腕に彫られた不気味な刺青に落ちる。それがある組織のシンボルマークであると思い出した時、ようやく僕はこの人が決定的に曽根崎さんの味方ではなくなったのだと知ったのだ。
「……景清君」
椎名さんの目がまた僕を映す。彼の背後の丘では、片田さんがのたうち苦しんでいる。頭が割れそうに痛む。椎名さんのもう片方の手には、いつの間にか真っ黒な板が握られていた。
「俺の師匠を、助けてくれ」
板を眼前に突きつけられる。そこに書かれていたのは、象形文字に似た何らかの言語。
「……死を超越せし、罪業者……永劫なる生者の牢獄にて、苛まれん……」
だけど僕は、それを読めてしまったのだ。





