12 黒い影の夢
僕は夢を見ていた。それは、曽根崎さんのいないマンションで、一人留守番していた時に見た光景だった。
ベランダの大きな窓に、黒い人影が映っている。夜より不穏なその黒はゆらりと蠢き一本の腕を出すと、ゴン、ゴン、ゴンとノックを始めた。
「開けてくれ」
阿蘇さんの声だった。だけど様子がおかしい。穏やかなのに、相手を萎縮させる無機質な声。いつも優しいあの人から出てくる言葉とは思えなかった。
僕は、息を潜めて布団をかぶった。
ゴン、ゴン、ゴン。
「ねぇ、開けてってば」
次に聞こえてきたのは、藤田さんの声である。僕は首を横に振った。その声も、僕の体の芯を凍りつかせるようなものだったからである。
それに、曽根崎さんと約束していたのだ。曽根崎さんが家にいない時は、たとえ知った顔であってもドアを開けないと。
ふと思い至る。そういえば僕は、窓からきた人については何も教えてもらっていなかった。
「……どこぞの仔山羊のようにはいかないようですね」
そうして迷っている時間を、拒絶と捉えられたらしい。知らない声がしたあと、ふいにノックの音がやんだ。突然訪れた静寂に怯えながら、僕は布団から頭を出す。
腕をしまった黒い影は、もう揺らめいてなかった。だけど、なおも変わらず窓の外からは動かない。
「あなたは今、かつての彼の悲願を叶えました。曽根崎の正気の錨として、彼の傍らに在り続けるという願いを」
「……?」
「ですが一方である願いを失いました。同等の立場でもって、彼の傍らに在るという願いを」
――窓で仕切られているはずなのに、僕の耳には明瞭に彼の声が聞こえていた。当然だろう、これは夢の中なのだから。
「そこで私は、あなたに新たな役割を差し上げたのです。太古より地の底で安寧に堕落する者達の言語を読み解く――解読者としての役割を。
これであなたは曽根崎の隣に立つ資格を得られたと思い込めるでしょう。しかし無論、この道は曽根崎の正気の錨である今の役割を捨てることにほかなりません。
けれど構わないでしょう? 必要なものは選択肢です。選択こそが人の意志の存在証明であり、自我を構成する柱たりうる。人で在り続けたいのなら、むしろあなたは選ばねばならない」
僕には、彼が何の話をしているかさっぱりわからなかった。なのに僕の心臓は、早鐘のように鳴っていた。
「さあ、お選びください」
黒い影は笑っている。真っ黒な口を開けて僕を嘲笑している。
「どちらを選ぼうとも、君は絶望することになる」
最後の声は、曽根崎さんの声によく似ていた。
冷たい風が頬にあたる感覚に、ハッと目が覚めた。視界に飛び込んできたのは、満天の星空。僕は、どうやら屋外にいるようだ。
「起きたか」
耳馴染みのない男性の声に振り返る。携帯用ランプを持った男の人が、どこか虚ろな目で僕を見ていた。
「椎名さん」
「こんなところまで連れてきて悪いね。ここ、どこか覚えてる?」
「えっと……」
「いや、答えなくていい。無駄な質問だった」
僕らがいたのは、原っぱのような場所だった。月明かりのお陰で、少し遠くにボロボロの家が連なっているのが見える。
「ここは、ほんの一ヶ月前に君が曽根崎と調査にきた場所だ」
「事件があったんですか?」
「そうだね。あった」
椎名さんは、心ここに在らずといった様子でぞんざいに答えた。彼の手には、黒くてつやつやした石が握られている。
「でも、その事件は俺にとって重要じゃない。必要なのはこっちだ」
石が地面に落とされる。――いや、よく見たら下に台座のようなものがある。そこに石が嵌った瞬間、石の表面に銀色の模様が浮き出てきた。光は広がる。どうやらここら一体に同じ石が設置されているようだ。
その時、僕の頭の左側に鈍い痛みが走った。咄嗟に手で押さえて呻く。脳をこじ開け、無理矢理侵入してくるかのような痛みが――。
侵入してくる? 何が?
「……これでもまだ思い出せないか」
どくどくと脈動するのは、石に刻まれた模様か、僕の頭の血管か。椎名さんは、がっかりしたように自分の首の後ろをなでた。
「どうやら曽根崎は、かなり強固な呪文をかけたようだね」
「じゅ、もん……?」
「そう、呪文。君は曽根崎の呪文によって、記憶を封じ込められている状態なんだ」
……何言ってるんだ、この人? 意味不明だけど、今の僕を脅かしている人なのには違いない。椎名さんにバレないよう、ポケットに手を突っ込んだ。
「ああ。残念だけど、君の持っていたスマートフォンは壊させてもらったよ」
僕を見もせず、椎名さんが言う。
「じゃないと曽根崎がくるからね」
「なん、で……」
「悪いことをしたと思ってるよ。でも電源を落とすだけじゃダメなんだ。彼なら、君の身を案じてスマートフォン自体に発信機をつけるぐらいはするから」
「……」
これ以上は、痛みのあまり立っていられなかった。僕は、頭を押さえたままその場にうずくまろうとする。けれどそんな僕の腕を椎名さんが強く掴んだ。
「ダメだ、逃げないでくれ。君は思い出さなきゃいけないんだ」
椎名さんの目は、やっぱり僕を見ていない。さっきからずっとある一点を見据えている。
「そこにいる、彼のためにも」
僕が見たのは、丘の上でのたうちまわる影。苦悶の表情を浮かべ、声ならぬ声で誰かに助けを求める――一人の老人の姿だった。





