11 治癒
阿蘇は迷わなかった。即座にバケモノの近くに走ると、持っていた警棒でバケモノの足を殴る。一瞬怯んだ隙に兄の体を取り戻し、逃げた。衣服では吸いきれない量の血に手が滑る。生臭いにおいに吐き気を飲み込んだ。
「クソッ……!」
だが、まだ息はある。阿蘇はデスクの裏に回り込むと、曽根崎の傷の具合を確認した。
曽根崎の片手は、強く下腹部を掴んでいた。圧迫することでそこからの出血を抑えようとしているのだ。しかしみるみるうちに曽根崎の体から熱が失われていく。もはや猶予はなかった。
「大丈夫だ、兄さん。すぐに治す」
曽根崎の返事ともうめき声ともつかない言葉を無視し、阿蘇は曽根崎の手をどけた。ごぼっと血が噴き出る。咳でもしたのかもしれない。顔にかかった血を拭おうともせず、阿蘇は唱える者を狂気へと導く言葉を紡ぎ始めた。
阿蘇は、兄である曽根崎から三つの呪文のうち一つを引き受けていた。どんな怪我でも、内情さえわかれば治すことができる呪文――治癒の呪文である。
冒涜的な音が進むに連れ、曽根崎の呼吸は落ち着いてきた。一方、阿蘇の様子はただならぬものになっていく。目の奥にある理性の光に、時折獣の影がよぎる。それはまるで、ひとたび気を抜けば阿蘇の体ごと奪ってしまいかねない衝動そのものだった。
そんな阿蘇の肩に乗せられた手があった。それについ、阿蘇は振り返ってしまった。
「――ッ!」
じわりと阿蘇の服に血がしみ込む。彼の肩にあったのは、肘から先が断ち切られた人の腕だった。
「アアアア?」
その腕を操っていたのは、真っ黒な触手だった。人の顔の皮を貼りつけた頭が、明らかな悪意をもって阿蘇を覗き込んでいた。
「……元は、何だったかは知らねぇが……」
しかし、阿蘇は動じない。それどころか、刃物のように鋭い目でバケモノを睨みつけた。
「俺の邪魔をするな!!」
阿蘇の右拳がうなり、バケモノの漆黒の腹部を貫通した。尋常ならざる力。治癒の呪文は、副作用として唱えた者の力を爆発的に増強させるのである。
当然阿蘇が狂気に呑まれれば、周囲に甚大な被害が出るのは間違いない。けれど今まで一度も〝そう〟なったことはなかった。彼はいついかなる時でも、強靭な理性でもって正気を保ち続けてきたのである。
向こう側を覗かせた黒い影はゆっくりと傾き、真っ黒な水溜まりの中に倒れた。かたや、すっかり傷の塞がった曽根崎は肘をついて身を起こそうとしている。
「よくやってくれた、忠助……。結局、全て任せてしまったな」
「まさかとは思うが、ここまで見越してたとは言わねぇよな?」
「お察しのとおり期待はしてた」
「バケモノと兄、どっちがクソか悩ましいぜ」
曽根崎に聞こえるようにため息をつく。それから阿蘇は、自分の後ろに転がる人の腕に目を落とした。
「……犠牲者が出たようだな」
「これでも最小限に抑えたほうだよ。見てみろ、私が敵を引きつけたお陰で命が助かった者があのあたりに隠れている」
「恩着せがましいな。まあ今はこっちを優先するか。兄さん、これ」
曽根崎の眼前に、電子端末が差し出される。曽根崎もそれが何か心得ているようで、頷き受け取った。
「助かった。これで記憶の補完ができる」
「つっても、もうだいぶ戻ってるように見えるけど」
「忘却した内容への自覚はできない。一応目を通しておく必要がある」
「そっか。……終わったら、また記憶を消すのか?」
「この曽根崎慎司のままで、景清君の前に出るわけにはいかないからな。私に記憶が残っていれば、何か漏らしてしまうかもしれない。それが彼の冒涜的な記憶を呼び覚ますトリガーになってはいけないんだ」
その言葉に、また阿蘇は腑に落ちないものを感じていた。……やはり、彼は隠しごとをしているのである。けれどそれに切り込む前に、「そういえば」と曽根崎は続けた。
「景清君はどうしてる? 君を呼びに行ってくれたんだろう」
「ああ、今は椎名さんとこのビルの一階にいるよ」
「……椎名と?」
曽根崎の表情に不審げな色がよぎった。
「なぜ椎名がここにいる?」
「兄さんに用があるんだってさ」
「用だと? 妙だ。ヤツはなぜここに私がいるとわかった?」
「それは――」
――ツクヨミ財団の田中さんに教えてもらったからだ。そう言いかけた阿蘇は、自分も兄も何も聞かされていない事実に思い当たった。あの病的なまでに責任感の強い田中である。機密事項である怪異事件に絡む話であれば、必ず曽根崎らに一報を送るだろう。そうでなくても、あの頑固な男が、やすやすと第三者に情報を漏らすことは考えにくかった。
ならば、どうやって彼はここを突き止めた? そうしなければならなかった理由はなんだ?
「……はっ、してやられたな」
景清のスマートフォンの電源が入っていないことを示す機械音声に、曽根崎は皮肉めいた笑い声をこぼした。しかし表情をうまく作れないはずの彼の顔は、今やはっきりと怒気を孕んでいた。
「忠助、ここは頼むぞ。私は彼を救出しにいく」
「おい、一人で行こうとすんな。そもそも景清君がどこにいるかもわからねぇだろ」
「ああ、わからない」
自身の血で汚れたジャケットを曽根崎は整える。そして、阿蘇から返却された電子端末をポケットに入れた。
「今はな」
曽根崎は、阿蘇の制止の声も聞かず、一陣の風のような速さで惨劇のオフィスからいなくなった。





