9 手段を得られたのなら
確か、阿蘇さんはビルの外で待機していたはずだ。曽根崎さんからの伝言の意味はわからないけど、きっと伝えさえすればなんとかしてくれるだろう。
エレベーターは僕にはまだ使えなかった。だから階段のドアを開け、そこに飛び込んだのである。手すりを利用して、一段飛ばしで駆け下りる。無数に続くかのような階段に時折目眩を覚えながら、僕にできる全速力で足を動かした。
そして、僕はついに一階までたどり着いた。息を切らせながらドアノブを握り、勢いよく押し開ける。
「わっ!」
「うわっ!?」
だけど、ドアの先にいた人に驚き跳ねのいてしまった。一度閉まってしまったドアをそろそろと開けて、細い隙間を作る。
「す、すいません、誰かいると思わなくて……! あの、開けても大丈夫ですか!?」
「……あれ、君、景清君じゃないか?」
「え?」
フランクな口調に驚いていると、向こうからドアノブを引っ張られる。知らない香水の匂いが広がって、がっちりとした体格のおしゃれな感じの男の人が姿を現した。誰だろう、この人?
「ああ、俺の名前は椎名。田中さんから事情は聞いてるよ。君ってば記憶を消されてるんだろ?」
「えっと……」
「安心して。俺は曽根崎の友達でね。以前の君は椎名さんって呼んでくれてたかな」
にこにこと場違いな明るさで笑う椎名さんに、僕はぽかんとしていた。……曽根崎さんの友達? 僕は曽根崎さんから何も聞いてないけど、怪異掃除の手伝いにでも来てくれたのだろうか?
だけど、僕だって曽根崎さんから預かった使命があるのだ。僕はドアごと椎名さんを押しのけながら、答えた。
「し、椎名さんっていうんですね。覚えてなくてすいません。でも僕、用事があるからここを通りたくて……」
「用事? それってもしかして、曽根崎の弟君に?」
「へ? は、はい」
「おーい、阿蘇君! 景清君がお呼びだよー!」
椎名さんが後ろを向いて声を上げると、誰かが走ってくる足音が近づいてきた。にゅっと椎名さんの肩辺りから目を出したのは、阿蘇さんである。彼も背が高いけど、椎名さんのほうが上のようだ。
「景清君? 息を切らせてどうしたんだ。手筈どおりなら、犯人は自首してる頃合いだと思ってたけど」
「はい! あ、でも、大変なことになって……! 普通の人のはずだった栗原さんがいきなり黒い霧に包まれて、黒い男の人が窓から現れて栗原さんの顔を剥がしたんです!」
ありのまま見たことを伝えたつもりだった。だけど口に出してみれば、これほど荒唐無稽な話はなかった。阿蘇さんに信じてもらえなかったらどうしよう。焦って口ごもる僕だったけど、阿蘇さんは僕が思うよりずっと真剣な顔で頷いてくれた。
「……わかった。君はここにいてくれ。俺はすぐに兄さんのもとに向かう」
「待ってください! 僕、曽根崎さんから阿蘇さんに伝言を預かってるんです!」
「伝言?」
「はい! 『曽根崎慎司は思い出した』と!」
阿蘇さんの表情が変わった。眉間に深い皺を寄せ、一瞬深く考え込む仕草をする。
「……わかった。それじゃ、尚更急がなきゃだな」
手で椎名さんの体を左に寄せ、阿蘇さんは前に出る。
「景清君はここにいてくれ。椎名さんもこちらで待機をお願いします。事件を解決したら、兄さんを連れてここに戻ってくるので。兄さんへの用事はその時に済ませてください」
「オッケー」
「景清君、終わったらすぐ連絡する。それまでいい子で待っててくれよ」
「はい!」
「うん、いい返事。じゃあな」
そう言い残すと、阿蘇さんはものすごい勢いで階段を駆け上がっていった。……僕には意味不明な曽根崎さんの伝言だったけど、やっぱり阿蘇さんには心当たりがあったようだ。あんな短い言葉で通じ合えるなんて、頼れる相棒って感じである。いいなぁ、かっこいい。
そうやってどんどん遠ざかる阿蘇さんの足音を聞いていた僕だったけど、ふいに肩を叩かれて飛び上がった。見ると、椎名さんが変わらぬ明るい目で僕を見下ろしていた。
「ね、景清君。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「は、はい。なんですか?」
「君さ、曽根崎としばらく一緒に暮らしてたんだろ? だったら、結構記憶も戻ってきたんじゃない?」
「あ……いえ、そうでもないです」僕は、申し訳ない気持ちと共に首を横に振った。
「やっと最低限普通に暮らせるようになったぐらいで、まだ全然以前みたいにはできていません。わからなくて混乱することもありますし……。曽根崎さんが一緒にいてくれてるから、なんとか生きていられるというか」
「ふぅん」
僕の言葉に、急に椎名さんの笑顔が薄くなった。それがなぜだか恐ろしくて、僕は少し身を引く。
けれど腕を掴まれて引き止められた。とても強い力だった。
「な……なんですか?」
「君の記憶が未だ戻らないのは、俺にとって重大な問題だ。いや、場合によって俺だけに留まらないだろう。時間がかかればかかるほど、影響は広がっていく。記憶を失った君には察しようもないと思うけどね」
「何を言って……! 椎名さんは、曽根崎さんに用があったんじゃないんですか!?」
「俺の目的は最初から君だ」
「え……!?」
「そうだな。いいことじゃないってのは、俺もわかっちゃいるんだ」
椎名さんが何を言いたいか、僕にはまったく理解できなかった。でも、無理矢理体を引きずられたことで、やっと自分の身に危険が迫っているのだと気づく。
「離してください! 怖いです!」
「怖いのは俺の行動が理解できないせいだろう。事情は必ず話すよ」
「だっ、誰か助けて――!」
「大声出しちゃだめだって。警察も外に待機してるんだから」
ぐるりと僕の体に腕を回される。胸と首を締められる。強い圧迫感に息すらできなくなって、じわじわと外側から闇が広がるように目の前が暗くなっていく。
「……これでも必死で考えたんだ。師匠だったら、田中さんだったら、それこそ景清君だったらどうするのだろうと。俺にはこうするしか思いつかなかった。そのための手段も得られてしまったなら――」
視界の隅に、剥き出しの椎名さんの腕が映る。先端のない六芒星と、中央に描かれた目。こんな状況でもお腹の底から不安になるような、不気味な刺青。
――それを、僕はどこかで見たことがあった。
「ごめんね。全てを思い出してもらうよ、解読者君」
最後に見た椎名さんの顔は、もう笑っていなかった。





