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続々・怪異の掃除人  作者: 長埜 恵
第7章 のたうつ霊の嘆きを聞け
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8 耳を塞いで

 受け入れがたい光景だった。生臭い風は耳元で唸り声を上げ、僕の皮膚からじわじわと汚いものが染み込んでくるようだ。呼吸するのさえおぞましく、僕は自分の口と鼻を袖で覆う。

 濃い闇が窓の外に浮かぶ口の周りに集まっていく。それは明瞭な輪郭を形作り、次第に人に似たものになっていった。

 けれど、位置がおかしい。

 口は、目の上にあるものだったろうか。

「おお……忌むべきかな。真実を撥無せし、まこと不憫なる矮小め」

 声が聞こえる。真上に広がり、まるで僕らを押しつぶさんとするかのごとく。

「曽根崎」

 そして床を揺るがすような恐ろしい大声が呼んだのは、僕の雇用主の名だった。鋭い目を見開いた彼は、数歩後ずさって震える声で尋ねる。

「貴様、何者だ……!? なぜ私の名を!?」

「――憐れ。共に忘却の時へと微睡み、自ら救い難きヒトの端切れへと成り下がったか」

 窓の外に浮かぶ目と口が逆さまの男は、大きな左手で自分の顔を覆った。同時に背後から聞こえたのは、苦痛に満ちた男の絶叫。

「あああああ! や、やめろ! やめろやめろ! 僕の顔が! 顔、が……!」

 栗原さんである。彼もまた、自分の顔を両手で覆っていた。だけどその手は少しずつ持ち上がっていく。あたかも、何者かに無理矢理顔面の皮膚を引き剥がされているみたいに。

 窓の外の男は、ゆっくりと上から下へと手を滑らせていく。ブチブチという肉のちぎれる音と血の弾ける音。そこに混ざった栗原さんの悲鳴は、ますます酷く耐え難くなっていく。

 そして、男の手が顎の下まで落ちた時。僕が見た彼の顔には、栗原さんの顔の肉がはりついていた。

「アア……ア……」

 よれた唇の奥には、歯も舌もない真の闇が続いている。僕らの後ろでどうと何か重たいものが倒れる音がした。その倒れたものを見てしまった茂柳さんは、頭を掻き毟って何事かを叫んだ。

「景清君!」

 曽根崎さんの声に正気に戻る。僕は、気づかぬうちにその場にへたりこんでしまっていた。

「逃げろ! この場所は異常だ!」

「で、でも……!」

「いいから! 君はこの場にいる者の中で最も関係ない者だ!」

 だから、わざわざ留まって巻き込まれる必要はないってことか。けれど僕の手の中には、稲岡さんの手錠の鍵があるのだ。僕が動かないと稲岡さんは逃げられない。

「ど、どどどどけっ!」

 しかし稲岡さんのもとへ行こうとした僕は、走ってきた茂柳さんに蹴り飛ばされた。――息ができない。強い痛みに体をくの字にして耐える。殆ど錯乱した茂柳さんは、あちこちにぶつかりながら一直線にドアを目指していた。

「アアアアアアアアアア!!」

 ボキボキと骨が折れる音がする。見ると、窓にいた男の全身に人の腕に似た黒く長い触手が生えていた。それは窓から飛び降りて這いつくばると、昆虫に似た動きで瞬く間に茂柳さんの眼前まで移動する。声にならない声で助けを求める茂柳さんの手足に、漆黒の触手が絡みついた。

「あパ」

 栗原さんの目と鼻と口の穴から触手が伸び、その先が割れた。――そこから先は見ていない。獣のような叫び声、肉をむしり取る音、ぐちゃぐちゃと液体混じりの柔らかいものを咀嚼する音。正気でいるには、全部から目を逸らさなければならなかった。僕は、必死で稲岡さんの手錠の鍵を外していた。

「な、なんで、なんで、ちがう、」

 稲岡さんは、泣きながらブツブツと呟いていた。

「これはゆめだ、ゆめ、げんじつじゃない、ちがう」

「手錠が外れましたよ、稲岡さん! 今は逃げましょう!」

「ちがう、ちがう、ちがう……!」

「稲岡さん!」

 いくら話しかけても、稲岡さんからの反応はない。……いや、本当にそうか? 僕が話しかけているなら、声帯は震え耳に自分の声が届いているはずだ。

 稲岡さんが僕を見ないのは当然だ。現実の僕は、外れた手錠を握りしめて放心状態で稲岡さんを見つめていただけだった。

「しっかりしろ!」

 いきなり視線が高くなる。お腹が圧迫され、大きく体が揺れる。僕の体は、誰かに運ばれていた。

「まったく、どこまで人がいいんだ!」曽根崎さんである。

「人を救って自分が死ぬなんて馬鹿げてる! 逃げるぞ!」

「ま、待って! 稲岡さんが……!」

「彼は後だ!」

 そんなのだめだ。だめだと思うのに、異常な状況に恐怖した僕の体と声は、自分のものじゃないみたいに動かない。ドアが近づいてくる。バケモノはまだ茂柳さんに気を取られている。このまま行けば僕らは逃げられるだろう。

「――!」

 なのに、僕は見てしまったのだ。栗原さんの顔をはりつけた〝ソレ〟が、茂柳さんの一部を滴らせてこちらを振り向くのを。

「あ……うああ……」

 縮み上がった僕の喉の筋肉は、声すらまともに通さなかった。バケモノの触手からピンク色の塊が滑り、床に落ちて赤い水しぶきを飛び散らせる。

「……クソッ。そういうことだったのか……」

 そんな中、立ち止まっていた曽根崎さんが小さく呟いた。どうやらスマートフォンの画面を見ているようだ。こんな時に何をしてるんだと僕が戸惑っているうちに、そっと床に降ろされる。そして彼は子供に言い聞かせるみたいに僕の両肩を掴んで、言った。

「いいか、よく聞け。君は今から、耳を塞いだままここから逃げるんだ」

「え、なんで……!」

「それから忠助のもとへ行き、こう伝えろ。『曽根崎慎司は思い出した』と。……詳しく説明している時間はない。すまない、君にしか頼めないんだ」

 大きく息を吸い、曽根崎さんは口を開いた。

「――」

 何か不明瞭な言葉が漏れたと思った瞬間、僕の体は弾かれたように立ち上がった。勝手にそうなったようにも思えたけど、深く考えてる暇はない。バケモノの視線はなおもこちらに向いているのだ。

「さあ、行け! 絶対に振り返るなよ!」

 僕は曽根崎さんに言われるがまま耳を塞ぎ、オフィスの外へと飛び出した。

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【書籍化情報】
怪異の掃除人・曽根崎慎司の事件ファイル(宝島社文庫)
表紙絵
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