7 犯人は
息苦しいほど重たい空気がオフィスに充満している。でもそんな中でも、曽根崎さんは凛と背筋を伸ばして無表情に立っていた。すごい神経してるな、この人。
「……稲岡君」
意外にも、静寂を破ったのは栗原さんだった。栗原さんに名を呼ばれた稲岡さんは痙攣したように跳ねると、後退した額にびっしりと汗を浮かべて言った。
「お……おれがやったんです!」
稲岡さんは、バンバンと床を叩いていた。
「おれがやりました! だって社長はおれが一番嫌なことを言ってきたし、死んで当然だと思って! 副社長もそうです! 自分が相談に乗るからって言って、裏で全部社長に筒抜けにして! しまいには、みんなの前でおれを晒し上げて!」
「稲岡……お前ぇ!!」
「二人とも死ぬべき人間だった! 死んだほうがみんなのためになる! おれが全部やった! 全部おれがやったんだ!」
暴れる稲岡さんの手首に手錠が食い込み、うっすらと血を滲ませている。止めなきゃと思ったけど、先に対処すべきは茂柳さんかもしれない。今にも稲岡さんに飛びかからんばかりに額に青筋を立てていたのだ。
「――『全部おれがやった』? 果たして本当にそうでしょうか」
だけどこんな一触即発の状況にすら、曽根崎さんは切り込んだ。彼は顎に手をあて、わざとらしく首を傾げている。
「そもそも、この計画は一人で実行できるものではありません。社内に幽霊の噂を広める者、社長のパソコンに遺書のデータを残す者、社長が夜一人になることを稲岡様に伝える者などが必要ですからね」
「それは……く、栗原さんがやってくれました! でも、栗原さんはあくまで手伝ってくれただけなんです! 本当に、全部おれがやって……!」
「なるほど。では今一度確認させてください。栗原さんはあの夜、どんな行動を取っていたのですか?」
強い口調での問いだった。けれど栗原さんは、まったくもって落ち着いた声で答えた。
「既にお話したとおりですよ。自分は事件が起こった時も、部下の三井と共に業務にあたっていました。けれど社長の悲鳴が聞こえたことで、すぐに最悪の事態を想像したのです。案の定、窓から外を見下ろすと、社長が地面に打ち付けられて死んでいました。だから自分は三井に警察に連絡するよう指示し、稲岡の様子を見にいったのです」
「あなたの指示を守った三井様は、何も目撃していないと証言しています。千代川様が亡くなったことすら、後で聞いたと。これは事実ですか?」
「ええ」
「しかし、千代川様が落下した際には衝突音がしたはずです。悲鳴は聞こえたのに衝突音が聞こえなかったのは不自然では?」
「……何が言いたいのですか?」
ここで初めて、栗原さんの声に訝しげな色が宿った。一方曽根崎さんは、鼻で笑って肩をすくめる。
「何も。私は事実確認をしているだけです」
「……衝突音は聞こえませんでしたよ。当時は通話中でしたし、六階はサーバールームも兼ねていますからマシン音もそれなりにありますしね。聞こえていたかもしれませんが、少なくとも我々は覚えていません」
「そうですか。では、もう一つ。あなたは稲岡様の様子を見に五階に向かったとおっしゃいましたが、具体的にそこで何をしたのですか?」
「何をって……そりゃあ稲岡君をフォローしていたんですよ。自分がしたことに恐怖する稲岡君を……」
「その稲岡様がしたこととは、殺人でよろしいですね?」
殆ど栗原さんの言葉に被せるようにして、曽根崎さんは言った。栗原さんは僅かにたじろいだように見えたけど、頷いた。
「はい。稲岡君は、千代川社長を窓から放り落としたショックに一人座り込んでいました」
「……!」
稲岡さんが栗原さんを振り返る。その表情は凍りつき、一切まばたきをせず見つめている。
「なので自分は、稲岡君に言いました。君の存在さえバレなければ、自殺で押し通せる。バレたとしても事故と言い張れる。安心して隠れていろと」
「咄嗟に出たとは思えないほどの素晴らしい詭弁ですね。しかし、こうして真実は明るみに出ました」
「……稲岡君がここまで強い殺意を持っていたとは思いもよらなかったのです。止められなかった自分にも責任があります」
「ご謙遜を。あなたにとて隠蔽という立派な責任がございます」
「罪は償います。ですが、稲岡君の背負う罪の重さを思えば――」
「ところで、千代川様のご遺体の指の爪が剥がれているのをご存じでしたか?」
またしても栗原さんを遮った曽根崎さんである。栗原さんはわけがわからないといったふうに眉をぴくりと動かしたけど、曽根崎さんは淡々と続けた。
「病気でもないのに自然に爪が剥がれることはまずありません。何か尋常ならざる事態が起こったと考えるのが普通です。例えば――死にものぐるいで何かを掴んだとか」
「……」
「一点伺います」
曽根崎さんの長い人差し指が、栗原さんの前で三度揺れた。
「あなたの胸元についた赤茶色の汚れは、いつついたものなのですか?」
栗原さんの顔色が変わった。しばらく身を庇うようにして汚れを探していた栗原さんだったけど、まもなく自分が罠に嵌められたと気づいたしい。ゆっくりと、青い顔を曽根崎さんに向けた。
「――私はこうも思うのです。栗原様が稲岡様のもとに向かった時、千代川様はまだ生きていたのではないかと」
そんな栗原さんに更に一歩迫り、曽根崎さんは言う。
「現場の状況を見る限り、元々殺す計画だったことは明らかです。しかし酔っていた千代川様は突如現れた稲岡様に驚き、転倒して失神してしまった。そんな千代川様を見て、恐らく稲岡様は殺意の勢いを削がれてしまったのではないでしょうか。抱えて落とせばよかったのに、そうしなかった。悲鳴のあとにすぐ衝突音が聞こえなかったのはそのせいです」
「で……でたらめだ……!」
「しかし栗原様はそうじゃなかった。気絶した千代川様を見るなり、とっとと窓から放り投げたのです。ですが、あなたにとっては運の悪いことに千代川様は覚醒してしまった。そして今際の際の力を振り絞り、栗原様の服を掴んだのです。奮闘虚しく彼は落下死してしまいましたが……あなたの反応を見る限り、ちゃんと物的証拠は残っていそうですね」
「……!」
「さて、こんなところでしょうか」
最後の曽根崎さんの一言は、栗原さんへのものじゃなかった。呆然と話を聞いていた、稲岡さんへと向けられていた。
「今やこの件は、自殺と断ずるには非常に疑わしいものになりました。あなたはどうされますか?」
「お……おれは……?」
「稲岡君! わかっているだろうな! 今更あれは違ったは通らないぞ! 一度罪を白状したからには……!」
「脅迫されていた被害者が、状況が一変したことで意見を翻すのはよくあることです。……既におわかりでしょうが、あなたの上司はあなたの良心と正義感を利用して罪を逃れようとしていました。それらを踏まえた上で、何卒あなたが見たままの真実をお伝えいただればと」
「稲岡君……!」
高圧的に叫ぶ栗原さんを気にも留めず、曽根崎さんは恭しく一礼をした。そんな場違いなほどの優雅さに、稲岡さんは呑まれてしまったのかもしれない。ぎこちなく、首を縦に動かした。
「そ、うです……。お、おれは、社長を殺せなくて……で、でも、栗原さんが代わりにやってくれるって……」
「稲岡君! 稲岡君稲岡君稲岡!!」
「お、おれは、もうどうなってもよかったから……く、栗原さんのためになるならって……おれ……」
稲岡さんは泣きじゃくり始め、その場に崩れ落ちた栗原さんは罵倒を続けている。……これで本当にすべてが明らかになった。曽根崎さんが狙っていたのは、最初からここだったのである。
物的証拠が出せるかは、ある意味賭けだった。だから曽根崎さんは、わざわざ栗原さんの醜態を誘導して稲岡さんの自白を撤回させることで証言を固めたのである。信頼関係が崩れた今、もう稲岡さんは栗原さんを庇うことはしないだろう。
曽根崎さん、すごい! 名探偵だ!
「では、警察を呼んできましょう。実はずっと外で待機してもらっていたのです」
曽根崎さんは、パチンと指を鳴らして言う。その音に、僕は空気すら変わってしまったように思えた。
……いや、実際に変わっていたのだ。
僕らが想像できる範囲をゆうに超えた、悪い方向に。
「ふ……ふふふ、くくくくく」
不気味に笑っていたのは、栗原さんである。四つん這いになった彼は、くぐもった笑い声を服と床の隙間から漏らしていた。
「おかしい……おかしいだろ……部下の尻拭いをした上司が罪に問われるなんて……。悪の成敗も部下へのフォローも美徳なのに……なんで僕だけが貧乏くじを……」
「栗原さん……?」
「ここまでだ……ここまで……お前の力とやらを、欲しいと思うとは思わなかったが……。ふ、ふふふふ、お前らがいけないんだ、お前らが……」
様子がおかしい。力って、なんのことだ? まったく脈絡のない言葉にみんなが困惑する中、栗原さんは突然ばっと立ち上がった。
「さあ今こそ出てこい、深淵を名乗る男よ! 僕に力を与えろ! あんな男のために決して……決してこいつらが、僕に罰を与えることができないように!!」
不気味な言語が聞こえてくる。風が吹いた。両腕を広げた栗原さんを中心に、黒いもやが渦巻き始める。そのもやはみるみるうちに濃くなっていき、しまいには栗原さんを覆ってしまう。
「そ、曽根崎さん……」
だけどこんな時なのに、僕は言わずにはいられなかったのだ。
「やっぱり……訪問者は窓からも来るじゃないですか……!」
もやの向こうの窓の外。妖しく弓形になる真っ黒な口を、僕は見ていた。





