5 そこまでだ
深夜二時。ビルに灯っていた明かりは既に消え、ギラギラとした光が夜の街を照らしている。そんな光景を眼下にしながら、男――茂柳は、緊張でこわばった自分の手の冷たさを感じていた。
「!」
過敏になっていた彼は、小さな物音にさえ振り返った。それは、衣服のこすれる音にも似ていたように思えた。
「誰かいるのか!」
上ずった声に返ってきたのは、冷ややかな静寂。茂柳は忙しなく唇を舐め、両手をこすりあわせた。
突然部屋の隅で、人の話す声がした。大きく反応した茂柳だったが、今度こそ彼は「ヒッ」と悲鳴を上げることになる。
彼が見たのは、デスクに置かれたボイスレコーダーだった。
「……!」
ただボイスレコーダーが置かれているだけだったなら、まだ落ち着いた行動ができたろう。だが、ボイスレコーダーから漏れてきたのは、二人の男が言い争う声だった。
そしてその会話を聞いた茂柳の顔は、一瞬にして蒼白になったのである。
脇目もふらずにデスクまで走り寄り、ボイスレコーダーを掴もうとする。ところがその手のひらサイズの機器は、テープで頑丈にデスクに貼り付けられていた。茂柳は両手でボイスレコーダーを鷲掴みにすると、力任せに引き剥がそうとした。
「――茂柳さん」
いつの間にか、茂柳の後ろに一人の男が立っていた。振り返ってその顔を見た茂柳の顔から、色という色が失せる。彼は男を知っていた。知っていたからこそ、ここにいるはずがないと思い込もうとしていた。
「稲岡……!」
恐怖に滲んだ言葉は途切れた。茂柳の首に手が伸ばされ、強く締め上げられたからである。
「そこまでだ」
刹那、茂柳と男をまばゆいばかりの光が襲った。思わず怯んだ二人に、素早く一つの影が近づく。ガチャリという音と共に、若い青年の声がした。
「曽根崎さん、終わりました! 稲岡さんの手に手錠を嵌めています!」
「よろしい。それでは、茂柳氏を連れてこちらに戻ってきてくれ」
腕を掴まれる感覚に悲鳴を上げる茂柳だったが、「大丈夫ですよ」と宥められて肩の力を抜く。何も言葉を発せないまま、青年の導きに従った。
次第に目が慣れてくる。茂柳が歩いていった先にいたのは、懐中電灯というには凶悪なほどの光を放つ光源を持った長身の男だった。
「お初お目にかかります、稲岡様」
長身の男は、堂々たる物言いで茂柳の後方に向かって話しかけた。
「もっとも、あなたにとってはそうではないのでしょうが」
茂柳の耳に、ガチャガチャと激しく金属の擦れる音が届いた。
茂柳さんを十分〝彼〟から離した僕は、曽根崎さんに指示されていたとおり照明をつけた。部屋いっぱいに広がる穏やかな明かりの下、かなりくたびれた風貌の男の人がうずくまっている。彼の左手首には、さっき僕が嵌めたばかりの手錠がデスクと結びつけられていた。
彼の名は、稲岡マナブさん。透けても浮いてもいない、一人の男性だ。
「――改めまして、自己紹介をしましょう。私の名は曽根崎慎司」鷹揚に一礼する曽根崎さんを、稲岡さんは獣のような目つきで睨みつけている。
「あなたの元上司である茂柳様からの依頼で、この事件を調査していました。横暴極まる振る舞いをしていた千代川様が、稲岡様の幽霊を見たことで我が身を責め、投身自殺を行った――。しかし、一見ありふれた怪談も、蓋を開けてみればこのとおり」
曽根崎さんの長い腕が、稲岡さんを差した。
「稲岡マナブ様は、生きていた。自殺をしたという風聞自体、デマだったのです」
「で、デマ!? そんなバカな!」
当然声を荒げる茂柳さんである。味わった恐怖の反動もあるのだろう。
「社員どもは口を揃えて葬式に行っただの何だの言ってたんだぞ! 俺にも厭味ったらしい訃報が届いたっていうのに!」
「しかし、直接あなたが足を運んで確認したわけではないでしょう? 現に今、稲岡様は目の前でピンピンしてらっしゃいます」
「そんな……! 俺は騙されてたっていうのか!」
「ええ。しかも稲岡様だけでなく、従業員全員に」
曽根崎さんは、ぐるりと空っぽの部屋を見回した。
「つまり、稲岡様が亡くなっていると信じ込んでいたのは、茂柳様と千代川様のみだったのですよ。……そうですね、栗原様?」
曽根崎さんの呼びかけに、一人の男性が暗がりから出てきた。四十代ぐらいの痩せた人である。彼は蓄積した疲労を感じさせる顔を静かに縦に振り、答えた。
「……仰るとおりです。我々社員一同は、稲岡が生きているのを知っていました」
「栗原……! お前! どういうことだ!」
「あなたに説明することはありませんよ、茂柳〝社長〟。自分はあくまで曽根崎さんに話をしにきただけなので」
冷たく吐き捨てる栗原さんである。だけど、呆然とする稲岡さんには情のある目を向けた。
「稲岡君。このようなことになって本当にすまなかった。だが、曽根崎さんは既に多くの真実を掴んでいるようだ。ならば、僕は僕の知っていることを話すべきだと思う」
「で……ですが!」
「あれは事故だった。そうだろ?」
栗原さんに強く言われ、稲岡さんは押し黙った。栗原さんは曽根崎さんに体を向けると、丁寧に頭を下げる。
「曽根崎さん、自分は嘘偽りなく本当のことを申し上げます。勿論、あの晩に起きたことについても。なんでもお聞きください」
「ご協力感謝いたします。確認しますが、栗原様は事件当日も部下である三井様と共に業務についていたとのことでしたね? 稲岡様が社内に潜んでいるのを、承知の上で」
「はい」
「結構。これで役者は全て揃いました」
曽根崎さんは、もったいぶった仕草で両手を広げる。
「ご清聴くださいませ。怪異の掃除人たる私曽根崎慎司が、今より何もかもを明らかにしてみせましょう」
誰も何も言わない室内で、金属がぶつかる微かな音だけが響いている。僕の目に映る稲岡さんは、なぜか何かに怯えているように見えた。





