1 彼は怪異の掃除人
僕の名は、竹田景清。とある事務所でアルバイトをする、大学三年生である。
雇用主の名は、オカルト系のフリーライターの曽根崎慎司さん。事故の後遺症で日常生活を送るのに少し不便があるため、以前は僕が細々とした事務作業や食事などを担当していた。
――〝らしい〟。実はここまで、全て聞いた話でしかない。僕は今、ある事件に巻き込まれて、人として基礎的な生活すらできないほどの記憶喪失に陥っていた。
「気にしなくていい」
だけど曽根崎さんは優しくて、今日もフォークの使い方がわからず混乱する僕を助けてくれている。
「一度教えたことは、すぐにできるようになるんだ。つまり、完全に記憶が消えてしまっているわけではない。その証拠に、箸も一日足らずで使えるようになったろ? 思い出すきっかけさえあれば、そう日も経たずもとの生活を送れるようになるさ」
「そうでしょうか……」
「そうだよ。ほら、フォークを使って枝豆を刺してみろ」
「曽根崎さん、これコロコロします。全然刺せません」
「じゃあこっちの大豆にしてみようか」
「同じくです。もしや豆はフォークが嫌いなのでは?」
「うむ、豆類を怖がらせてはいけないな。スプーンに替えてみよう」
曽根崎さんは僕のことを「面倒でも何でもない」と言ってくれたけど、僕にはそうは思えない。一緒に暮らし始めて二週間ぐらい経つけど、初めて病院で会った時より大分憔悴している気がするからだ。それに時々、僕に決して家から出ないよう言って、数時間ふらりと姿を消すことがある。曽根崎さんは僕が眠る時間を選んで帰ってきているようだけど、こっそりと起きて見る彼はいつもぐったりと疲れ果てていた。
だからできるだけ負担をかけたくないと思うのに、今の僕ではそうできないのが歯痒かった。知らないことが溢れかえっている世界は、今の僕にとって本当に怖いものだった。例えば、シャワーも、椅子も、ベッドも、僕が病院で見たものとは色も形も材質も違っている。初めて曽根崎さんの家に来た時は、そのことが理解できなくてパニックになった。病院から持ってきた毛布にくるまり泣きじゃくる僕には、ほとほと曽根崎さんも手を焼いたんじゃないだろうか。
それでも、曽根崎さんが根気よく一緒にいてくれたのもあって少しずつ慣れてきたのだ。けれど、未だに外に出るのは彼の補助なしでは恐ろしくてできない。我ながら、弱い人間だと思う。
「気に病むなと言ってるだろ。当然の反応なんだから」
なのに曽根崎さんは、一つも嫌な顔をしないのである。掃除機という未知の機械の使い方を教えてくれた時も、落ち着いた声でそう言い聞かせてくれた。
「人は未知のものに対して一度は拒絶を示すものだ。大体慣れるということ自体、時間がかかるんだよ。知ってるか? 生まれて一ヶ月の赤ん坊の視力は0.05ほどしかないと言われている。また、脳の発達も未熟だ。そこから段階をおって体を発達させていく中で、ヒトは世界というものに馴染んでいくのさ。しかし、今の君はその過程をすっ飛ばして世界を突きつけられている。元来ヒトという生き物は特に学習行動が多いとされており、定義にもよるが本能行動は僅かであると……」
「すいません、途中から難しくてわからなくなりました。以前の僕は曽根崎さんの説明を全て理解できてたんですか?」
「そんなことはない。今の感じで適当に説明を切り上げていた」
「よかった……。いや、いいのか?」
掃除機は思いの外大きな音が出て、びっくりした僕は即座に曽根崎さんの背後に隠れた。
曽根崎さんは、不思議な人だった。髪の毛はぼさぼさで、目の下の濃いクマや無精髭も相まって、一見こちらが身構えてしまうような顔をしている。けれどそんな自分を戒めるように、彼は常にスーツをきっちりと着こなしていた。自宅でもそうだったので、この服装には身だしなみ以上の意味があるような気がする。
テンションが上がることはあまりなく、基本的には仏頂面で淡々としている。でも僕に対してだけは責任感からか穏やかで、どんなに僕が失敗したりパニックになっても怒らなかった。ゆっくりとした口調で的確な指示をくれたり、解決方法を提示してくれたりする。それだけでなく、時折「笑顔かな?」って思えるような表情も見せてくれていた。
家族とは疎遠らしい僕だったけど、曽根崎さんみたいな人が近くにいたなら、以前の僕も寂しくなかったんじゃないかな。ようやく作れるようになった目玉焼きを彼の前に並べながら、僕はそう思ったのである。
だけど、そんな曽根崎さんには裏の顔があった。
「――景清君。依頼がきた」
ある日、事務所の窓を拭いていた僕に曽根崎さんが言った。彼の手には、端っこが破かれた真っ白な封筒。
「ここから車で三十分ほど移動したビルで、心霊現象が起きている。社員曰く、自殺した男の霊が出るらしい」
「自殺した男の霊、ですか?」
「既に何人もの目撃情報がある。時刻は決まって、深夜二時。五階のオフィスにある、彼の使っていたデスク近くで出るのだとか」
「それ、幽霊より深夜二時に目撃情報が多数出る会社のほうが怖くないですか?」
「そこの社長は悪いタイプのワンマン社長でな。残業代も出なければ給料も未払い。退職した社員から裁判を起こされている始末だった」
「人間のほうが怖い話ですね?」
「そしてつい一昨日、その社長が死体で発見された」
突如として事件性を帯びてきた話に、僕は固まってしまう。曽根崎さんは口の端を引き攣らせて笑うと、僕に新聞の切り抜きを渡してきた。そこにあったのは、システム会社の社長がビルから飛び降り自殺をしたという記事である。
「私は、そこの副社長からこの怪異を掃除するよう頼まれた」
歩き出した曽根崎さんは、黒い鞄を持ち上げる。出かける準備をしているのだ。
「行こう、景清君。怪異など存在しない。それを私は、〝怪異の掃除人〟として真っ向から否定し証明してやらねばならん」
――怪しげなオカルトフリーライターを自称する彼の裏の顔は、〝怪異の掃除人〟。曽根崎さんは、怪異と呼ばれる事件を調査し、その裏に潜む人の思惑を突き止めることで解決へと導くエキスパートだった。





