12 目が覚めて、見たのは
朧気な世界の中で、誰かがそばにいてくれていることだけは感じていた。
その人は、わけのわからない言葉を呟き続けていた。もっとも、意味があったとしても今の僕には認識できなかっただろうけど。僕の頭にかかる白いモヤは何もかも塗りつぶして、思考すら見えなくしていたのだ。
すーっと気持ちが軽くなっていく。何も考えないでいいのは楽だった。とても大切なことがあったような気がするけど、白いモヤの中をふわふわ漂う僕にはもう思い出せない。
――誰かが、僕を呼び戻そうとしている。行ったほうがいいのかな。でも、迷惑じゃないかな。
不安なまま、誰かの手を握る。冷たい手は少しだけ間を置いたあと、強く握り返してくれた。
曽根崎は、白い部屋で目を覚ました。
――ここは病院か。瞬時に判断した彼は跳ね起き、ナースコールに手を伸ばす。が、手首に抵抗を感じて目を落とした。自分の両手は、ベッドの柵に固定されていた。
当然気にする曽根崎ではない。幸い手の届く範囲だったので、迷わずナースコールを掴みスイッチを入れた。
まもなくして、一人の看護師がやってくる。だが怯えた顔の彼女は、曽根崎の家族に連絡した旨を伝えると、そのまま姿を消した。
「……」
目が覚めたのなら、解放されるかと思ったのだが。しかしよく見れば、曽根崎の手足には細かい引っかき傷やアザが残っていた。まるで、強く誰かに押さえつけられたかのように。
それに心当たりがないではなかったのである。まあ答え合わせは〝家族〟とやらが来てからでもいいと、曽根崎はベッドに体を預けた。
そして三十分後。そんな彼の前に立っていたのは、血を分けた唯一の兄弟だった。
「景清君はどこだ?」
「お前のブレなさすげぇな」
ベッドに縛りつけられながらも通常運転の曽根崎に、阿蘇はしかめ面を隠そうともしなかった。
「部屋こそ違うけど、同じ病院にいるよ」
「状態は?」
「……後で話す。それよか先に、お前の状態を見とかねぇとな」
阿蘇は近くにあった丸椅子を片手で引きずってきて、どかりと腰を下ろした。長い話になると判断したのだろう。足を組み、威圧的に曽根崎を見据える。
「いくつか質問に答えてもらうぞ。内容によってはもうしばらく拘束しとくハメになるから、真面目にやれ」
「……わかった」
「よし。それじゃ、一つ目」
阿蘇の刃物のように鋭い目が、曽根崎を射抜いた。
「お前、景清君に何をした?」
しかし曽根崎は、全く動じずに自分に似た目を睨み返したのである。
「呪文を唱えた。記憶を忘却させる呪文だ」
「……だろうと思ったよ」
「緊急措置だった。そうする以外に、彼の身を守る方法はなかった」
「何があったんだ。一応柊が教えてくれたけど、直接お前からも聞きたい」
曽根崎は、黙って頷いた。阿蘇には、ヒデナを調べてもらう過程で大まかな事情を伝えてあった。よって、説明するのはそこから先。ヒデナが景清に対して正体をあらわにした所からである。
「――景清君の意識が、〝侵略〟されていた?」
だから、曽根崎の証言に阿蘇は信じられないといったように頭を振った。
「っつーと……手足教団の教祖みてぇな感じ? そいつの場合は、呪文を使って景清君の意識を乗っ取りかけてたって聞いたけど」
「いや、今回はまた別物だ。あのヒデナとかいう女の言葉を信じるのなら、彼は大量の情報を一瞬にして濁流のように送り込まれていた」
「大量の情報……」
「脳の容量は無限とも言われているし、短期的な記憶に限ればキャパシティがあるとも言われている。だが、容器に水を注ぐように強制的に情報を流し込まれたら、人はどうなるか。
記憶とは、シナプスを介したニューロンネットワークの中で整理され処理されている。このシナプスの可塑性が記憶保持に影響をもたらしており、そこに多大な負荷をかけた場合……」
「日本語を喋れ」
「喋ってるつもりだったんだが……。とにかく、大量の情報をいっぺんに送られたと思われる景清君は異常を示した。一時的に情報を与えられただけなら、私の呪文でごまかすことができたかもしれん。しかし、断続的に、かつ膨大な量のものとなれば話は違ってくる。何度私が呪文を唱えても、彼は自我を失ったまま意味不明な言葉を呟き続けていた」
「意味不明な言葉?」
「日本語にも聞こえたが、違う言語にも聞こえた。周りもうるさかったし、私もそれどころじゃなかったから詳しくはわからん。とはいえ、景清君が司祭が自分を狙っていると言った以上、種まき人が絡んでいることは間違いないだろう」
「司祭も現場にいたってことか? だけど柊も光坂さんも、アイツは見なかったって言ってたぜ」
「私も同じくだよ。混乱した景清君による幻覚の可能性もあるが……本当はあの場にいたものの、突撃してくる4WDに恐れをなして逃げたのかもしれん。あの時の光坂さん、めちゃくちゃ怖かったから」
「腹括った女がこの世で一番怖ぇと俺は思うよ」
そう答えて、若干話が脱線しているのに阿蘇は気づいた。咳払いをし、会話の筋を元に戻す。
「……で、景清君をパンクさせた大量の情報だけど。父さんがパクってた石をもとに戻したら発動したって言ったっけ?」
「その可能性はあるとは言ったな。だが疑問は残る。なぜなら、石がなくなっても景清君は……」
何かを言いかけた曽根崎だったが、途中で口をつぐんだ。それからふとワイシャツ姿の自分を見て、阿蘇に顔を向けた。
「ところで黒い石はどこだ? 一つ私のジャケットに入っていたはすだが」
「俺が預かってるよ。お前を拘束した時、武器になりそうなものは調べて全部取り上げたから」
「理由は?」
「……お前が正気を失ってたからだよ」
阿蘇は、複雑そうな顔で自分の兄を見ていた。
「光坂さんの車がここに来た時、兄さんは既に手がつけられない状態だった。景清君を抱えて、近づこうとするヤツら全員に噛みつかんばかりでさ。あらかじめ柊に言われてたから俺もその場にいたけど、獣みてぇでとても会話なんかできたモンじゃなかったな」
「……」
「……そうだな。生まれたての子猫守る時の母猫の顔に似てたかも」
「ほのぼのとした光景じゃないか」
「それを三十一歳の男が二十一歳の男にやってんだぞ。軽く地獄絵図だわ」
当然そのままにしておけるはずもなく、阿蘇達は力尽くで曽根崎を景清から離し、ベッドに縛りつけていたというわけである。ひととおり事の顛末を知った曽根崎は、唯一自由な首をぐるりと回した。
「ま、そういうことなら面倒をかけたな。だがこれ以上の心配は無用だ。そろそろ私の正気は証明されただろうし、拘束を外してもらいたい」
「我が兄ながらどこまで神経太いんだよ。出雲大社の大しめ縄か?」
「それでも足りないと言うなら、君が音を上げるまで素数を並べ立ててもいいが」
「手足拘束された上で真顔で素数吐くヤツが正気なわけねぇだろ」
「2、3、5、7、11、13……」
「始まった! やめろやめろ! わかったよ、外してやるから、すぐやめろ!」
阿蘇はイライラと後頭部を掻き、ナースコールを押して簡潔に用件を告げる。しばらくしてたくましい看護師が到着し、曽根崎の拘束具をほどいた。
「さて、今度はこちらの番だ」
アザの残る手首をさすりつつ、曽根崎は座り直した。
「景清君の現状について教えてくれ」
「……俺が口で言うより、直接会ったほうが早いな。歩けるか? 同じ病棟だから遠くはねぇけど、兄さんが正気に戻るまで三日かかってんだ」
「うむ、問題ない。手を貸してくれ」
「ダメダメじゃねぇか。なんで一度見栄を張ったんだよ」
阿蘇の肩を借り、曽根崎はぎこちなくスリッパをはいた。……久しぶりに動かしたからか、体は酷く冷たく、重たかった。もしくは、今から目にするだろう景清の姿を覚悟していたからかもしれない。
「……ここが、景清君の病室だ」
曽根崎が連れてこられたのは、304というプレートのついた簡素なドアの前。阿蘇は三回ノックをすると、優しく声をかけた。
「景清君、いるか? 阿蘇忠助だ。紹介したい人がいるんだが、入ってもいいかな?」
それに応えたのは、なんとも頼りない微かな声だった。だが同意は得られたので、阿蘇はドアの取手を握る。滑らかに開いたドアの先でベッドに腰掛けていたのは、曽根崎にとって見慣れた青年だった。
「あ、あの……」
しかし彼は、見慣れぬ遠慮がちな目を曽根崎に向けていた。
「あなたは、どちら様でしょう……?」
その言葉に、曽根崎は今自分がどういう表情をしているのか、全く想像できないでいたのである。





