11 流れ込んでくる
いや、逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ、現実から目を背けちゃダメだ。いくら非現実的な現実でもちゃんと受け入れないと、状況は打破できな――
現実の難易度高ぇな!
「アッ……ガアッ……!」
痛みに耐えかねたのだろうヒデナちゃんは、僕の首に巻き付けている首を僅かに緩めた。だというのに、僕は脳に流れ込んでくる情報を見ないようにするのに必死で、振りほどく余裕もない。
「景清君!」
車から飛び降りた曽根崎さんが駆け寄ってくる。その後ろで、一旦バックした4WDが、もう一度ヒデナちゃんの体を轢くのが見えた。
ヒデナちゃんの首は、弱々しく僕の服を噛んでいた。けれどやってきた曽根崎さんに、容赦なく引き剥がされる。
「まずは逃げるぞ! 一応聞くが、連絡事項は!?」
「司祭が……僕を狙っています。か、解読者とか、なんとか。あ、あと……石を並べたら、ゆ、幽霊が出て……」
「幽霊?」
僕の指差す方向を見た曽根崎さんの顔から、一気に血の気が引いた。口角が、恐怖によって釣り上がっている。
「……石を並べたら、あの幽霊が出たんだな」
曽根崎さんの問いに、僕は頷く。すると彼は、迷いなくその辺にあった黒い石を拾ってスーツのポケットに押し込んだ。フッと幽霊の姿がかき消える。
「これでいい。行くぞ」
「でも、ヒデナちゃんを放置したら、他の人に被害が……」
「君の身の安全の確保が最優先だ。いずれにせよ、ここは廃墟群であり、本来なら立ち入り禁止区域。巻き込まれる人間は自業自得と割り切れ」
「そ、そんなの……!」
いいわけない。だって、ヒデナちゃんもここが子供達の遊び場になってると言ってたのだ。……あれ? その彼女の正体が種まき人だとしたら、発言自体が噓の可能性も……。
だが考えようとしたのがいけなかった。僕の思考が巡るのを悟った〝意思をもった情報〟は、ここぞとばかりに脳に侵入してきたのである。
「ぐうっ……!?」
「景清君!? どうした!」
「あ、頭の中に……な、何かが……!」
曽根崎さんが自分の腕時計を見る。早口で呪文を囁かれる。僕の頭に蔓延しようとしていた情報群に、うっすらと白いモヤがかかっていく。
だけど無駄だった。モヤを上書きして、青い世界の情報が僕の脳の神経をめちゃめちゃに食いちぎってくるのだ。
「景清君は解読者だもの……」
あどけない小さな声がする。今やおばあさんになったヒデナちゃんの顔が、少し離れた場所に転がったまま、茶色い目で僕を見ていた。
「解読者は……永遠を得し者の知識を得るって、ナイ様が仰ってた……。言葉の習得って、とっても難しい。特に、永遠を得し者の言語は難解だもの……。あれだけの量をいっぺんに読んだなら、いくら選ばれた解読者だからって、頭がパンクしちゃってもおかしくないわ……」
「永遠を得し者? 言語? あれだけの量とは……」
「黙れ邪魔者! 私は景清君と話しているのよ! せっかく景清君が苦しんでるのに、慰めて救うのは恋人である私の役目で」
パキャッと何か脆いものが折れ潰れる音がする。立ち上がった曽根崎さんが、ヒデナちゃんの頭を革靴の踵で踏み潰していた。
「きったな」
おっそろしく温度のない目で見下ろし、その辺の草むらに靴底を擦りつける。……なんだか、久しぶりにそういう目を見た気がした。
「柊! そっちはどうだ!」
「いきなり動きが鈍くなったわ! これなら狙える!」
曽根崎さんと柊ちゃんのやり取りに、何も考えずそちらを見て仰天した。柊ちゃんはモップを構えていた。そのモップの先に取り付けられていたのは、包丁。
「ただの槍じゃないわ! 廃屋に残ってた、混ぜちゃいけなさそうな液体を片っ端から塗ってみた特別性! こんなもんでお口を傷つけられたら、口内炎じゃ済まないわよ!」
多分、そんなことを言っていたと思う。曖昧なのは、柊ちゃんが口上の序盤からヒデナちゃん本体の口に槍をぶっ刺していたからである。聞くも耐え難い悲鳴に、僕の頭痛はどんどん酷くなっていた。
「景清君! 景清君! 私の恋人……!」
悲鳴の間にも、ミイラみたいに干からびたヒデナちゃんは、ひび割れた唇で僕の名前を呼んでいた。胸に言いようのない感情が湧く。なのにそれすらもすぐに青に侵される。
――そういえば、司祭はどこへ行ったんだろう。
「景清君の様子がおかしい! 即刻撤退だ!」
エンジン音。タイヤが地面をこする音。止まるヒデナちゃんの声。僕の後ろの髪を鷲掴みにする曽根崎さんの手。耳に絶えず注ぎ込まれるわけのわからない言語。
「曽根崎さん、乗ってください! 景清君は……!」
「今はあとにして、佳乃! シンジ、呪文唱えながらでいいから景清連れて車に入んなさい!」
「超特急で山を下ります! シートベルトだけはつけてくださいね!」
体だけじゃなく頭もベルトで固定される。白いモヤと、モヤを押しのけて僕に入ってこようとする何かと、それでも重ねられる白いモヤ。ふと、濃くなっていく霧の向こうに曽根崎さんの姿を見た気がした。
でも、表情が見えない。きっと曽根崎さんが僕に呪文を唱えているせいだ。
――あれ?
重たい頭をもたげる。ようやく考えることができるようになった僕は、意識の中、一人ぼっちで立ち尽くしていた。
――曽根崎さんって、誰だっけ?
青い世界が遠くなっていく。白いモヤは僕の脳を隙間なく埋め続けている。ずっと頭の中で聞こえる知らない声は酷く切羽詰まっていて、僕は一言「大丈夫ですよ」と、そう言ってあげたかった。





