10 解読者
人ではなかった。人なら、あんなふうに向こう側が透けて見えたりしない。僕は息をするのも忘れて、じっと男が苦しむさまを凝視していた。
男はダウンジャケットを着ていた。遠く、かつ眼鏡をかけているせいではっきりとはわからないけど、年配の人のようである。振り乱した髪にははっきりと白髪が混じり、開けっ放しの口の端には深い皺が刻まれていた。
彼が僕らに気づいた様子はない。自らを苛む苦痛に、なす術なく悶えるのが精一杯のようだ。
――あれが、曽根崎さんの言っていた男の幽霊なのか? でも、男っていうよりはおじいさんって印象だけど……。
「……ん?」
視界の隅で、何かが瞬く。見ると、さっき台座に嵌めた黒い石の表面にうっすらと銀色の模様が浮き出ていた。
他の石も同様である。まるで脈動するように、模様に沿って光が放たれていた。
刹那、僕の脳の左側に釘を打ち込まれたかのような激痛が走る。側頭部を手で押さえ、うずくまる。それが良くなかった。僕の顔は、謎の模様まで近づいてしまっていた。
目が、無意識に石に刻まれた何かをなぞる。それが文字であると僕は知っていた。僕は、この文字を読んだことがあった。
目の奥で青色の光が広がる。強制的に情報が流れ込んでくる。見たことのない植物、土、知らない場所、薄暗い部屋、やつれた無表情の青年、顔の半分が割れた女、老婆、誰かに引きずられていく老人、彼を連れていこうとする民族衣装を着た誰か。そいつは、何かに気がついたように僕に向かって首を回し――
「クチ」
脳で処理できない情報が、口からこぼれた。
「クチ、イリグチ。永遠に輝ク都市――への、クチ。アな。穴」
「景清君?」
「繋ガ、るルるる――ツナゲラレ、る。アの、領域は――」
「景清君……!」
女の子の声がする。驚いた声だ。それよりもあたまがいたい。どんどん視界と考える場所が青い光と銀色の光と情報でうめつくされああああああああいたいいいたいいいいいなぜこんなめにこんなつもりではこんなこんなこんないたいいやだやめろたすけてなぜわたしはこのばしょにきたなぜなぜなぜいたいいたいいたいくるしいああああああああああああああああああああああ
「景清君! どうしたの!? 大丈夫!?」
誰かに強く揺さぶられている。僕の顔は両手で支えられ、その人によって強引に動かされる。青く染まる世界の真ん中で、二十代後半ぐらいの女性が満面の笑みを浮かべていた。
「お前が解読者だったのか」
突然彼女の顔中に深い皺が広がった。首や腕までも、全身の水分を吸い取られたかのように変貌していく。口が大きく開いた。その奥にいる誰かと、僕は目が合った。
凄まじい声が耳をつんざく。声というよりは、もはや音に近かった。女の口をこじ開け頭と片腕を出したのは、一人の男。――種まき人の司祭だった。
「解読者――解読者! おお、ナイ様の予言の者よ! 誰が気づこうものか! まさかかように凡庸な者であったとは!」
肉を裂いて出てこようとする血まみれの司祭は、喜びにぶんぶんと片腕を振っている。だけど、彼の声は女のものだった。
「解読者……景清君が!? それって本当ですか、司祭様!」
その声に、同じ声が重なる。ヒデナちゃんの、声が。
「なんて素敵……! 運命だわ! 私の恋人が、解読者として司祭様に認められるなんて!」
頭が割れそうに痛んでいる。情報はなおも僕の脳と精神を噛み砕き、侵そうとしてくる。――何も考えるな。考えれば、考えるだけ喰われてしまう。
「景清君、景清君、優しい優しい景清君……!」
ヒデナちゃんの首の横に、もう一つ顔が生えてきていた。それは、最初に見たヒデナちゃんの顔だった。
接ぎ木されたようになった首が異様に伸びていることと、口の周りに血のりがついていることを除けば。
「ああ、司祭様! 私をこの姿にしてくれて本当にありがとうございます! 私がこんな可哀想な姿だったから、景清君の真心のこもった愛を確かめることができました!」
ヒデナちゃんの首がボキボキと音を立てて伸び、僕の目の前まで迫ってくる。彼女の足元には、体の一部を食いちぎられたモグラと蛇の残骸が落ちていた。
「怒らないでね? 私、あなたを試してたの」ヒデナちゃんの口からは、土と血が混ざった生臭いにおいがした。
「だって、せっかく生まれ変わったんですもの。ただ石を奪うだけなんてつまらないわ。私、もっともっと手に入れたい。素敵な恋人も、その恋人と過ごす素敵な毎日も……」
「……!」
「景清君。あなたは、私がどんなに姿を変えても何も言わなかった。……素敵。私の見た目よりも心を見てくれたってことでしょ? そんなあなたが司祭様から聞いていた解読者だったなんて、本当に運命としか言いようがない。私、もう一生あなたから離れられないかも」
ヒデナちゃんが、僕の胸に頬を擦りつける。皺くちゃになったほうの彼女の口からは、もう司祭が上体まで出てきている。
「――一緒に行きましょう」
歯が溶けそうなほどに甘い声が、耳をくすぐる。
「あなたは、解読者として司祭様に必要とされている。恋人として私に求められている。それってとっても価値のあることよ? ……ね、わかる? あなたは私と司祭様についてきさえすれば、ずっと寂しくないの。一生、可哀想な男の子じゃなくなるの。……迷う余地なんてないでしょ?」
そう言って、彼女は僕の頬を舐めた。獣の血をまとった不潔な舌。だらんとぶら下がった水気のない萎れた腕。不気味な刺青が彫られた司祭の首。のたうち回る老人の幽霊。絶えず流れ込んでくる未知の情報。
――プツンと、何かが僕の中で切れた。
「……いやだ……」
「え?」
一度自覚してしまえば、瞬く間に怒りが膨れ上がった。僕は、頭痛に耐えながらヒデナちゃんを突き飛ばしていた。
「え!? か、景清君……!?」
「勝手すぎる……! 行くわけないだろ、そんな場所!」
怒りのあまり周りが見えなくなっていた。……ただでさえ、自分はこんな大変な目に遭ってるのだ。なのになんで、わけのわかんねぇ組織のためにそこまでしなくちゃいけない? それを、さも僕の理想かのように決めつけるヒデナちゃんにも腹が立つ。
「解読者として必要とされるとか……君と一緒にいられるとか! 心底どうでもいい! 僕には僕の価値観がある! 勝手に決めつけるな!」
「な、何それ……!? なんでそんなこと言うの!? 景清君、全然優しくない! 別人みたい!」
「別人になったのはそっちだろ! いろんな意味で!!」
「そんな……! 私、また裏切られたの!?」
「ほらまた話が飛躍する! 裏切るとかここまでの流れで一切出てきてないのになんでそうなるんだよ! じゃあもうあれじゃん! ヒデナちゃんは自分の思い込み披露したいだけで、一ミリも僕の意見とか聞く気ねぇんじゃん!」
はたから聞けば、ただの痴話喧嘩なんだろう。でも彼女と僕の力の差は明らかだ。よって、さっきの僕の発言は自分にとって致命的なものになった。
「許さない……! 絶対裏切らないって言ったのに……!」
僕の首には、ヒデナちゃんの首が巻き付いていた。
「許さない許さない許さない! 殺してやる! 殺して、私と同じ姿に変えてやる!」
「ぐっ……!」
「あああああそれが最高の案だわ! 生まれ変わればいいのよ! 一度死ねば、きっと景清君はまた優しい景清君に戻ってくれる!」
ぎりぎりと首が締まっていく。酸素も、血も止まっている。血が滞った頭が次第に重たくなっていく。
「死ね死ね死ね死ね! 死んで、優しい景清君は私と恋人になるの!!」
狂乱した声を聞きながら、意識が遠のきそうになる。だけど闇の中、光が差したようにその声が届いたのだ。
「景清君!!」
――曽根崎さん。それは、ようやく現れた一筋の希望でもあった。けれど、声の主を視界に収めようと体を動かした僕は、すぐに後悔することになる。
「たっ、助けにっ、来たっ、ぞ!」
「ちょ、ちょっとシンジ! み、道ガッタガタだから、喋んじゃないって言っバァァァァッ!」
「お二人共、構えて! 突っ込みますよーっ!!」
「ああああああああああ!!」
「ああああああああああ!!」
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
――僕が見たのは、4WDを駆りおぞましい怪異に突っ込む曽根崎さんと柊ちゃんと光坂さん。そして、身を抉られて絶叫するヒデナちゃんの姿。
「……」
何も考えたくなかった僕は、そっと目を閉じた。





