番外編 マクベスの老人1
演奏会はそれなりに馴染み深いけれど、演劇となればそういえば観たことがなかった。
だから、つい絆されてしまったのかもしれない。
「頼む! 頼むよ! 俺から言っても、絶対慎司は舞台観に来てくれねぇからさぁ! この通りだ、優しい兄ちゃん! 長いこと会ってなかったかわいい息子に、俺の役を観に来るよう説得してくれねぇか!」
それがどこまで本心だったか分からない。とにかくギロさんに押されに押された結果、気づいたら僕は二枚の観劇チケット(前売り料金)を手に入れていたのである。自腹で。
なお、曽根崎さんには秒で断られた。
「久々に君の病的なお人好しを見たな。いいか、奴はノルマ分のチケットを捌けさせたかっただけだ。つまり君はまんまと利用されたんだよ」
そんなのあんまりだ、チケットって結構高いのに。でも喉元まで迫り上がった『同情するなら買い取れよ』という言葉はなんとか飲みこんだ。僕にだってプライドはある。
けれど捨てる神あれば拾う神あり。失った金額を夕食代に換算して落ち込む僕に、たまたまそこにいた田中さんが声をかけてくれたのである。
「そんなら僕と舞台に行くかい? 勿論こちらの奢りだよ、日頃の労いも込めてね」
「いいんですか!?」
「もちろんだとも。なんなら、手数料として多少チケット代に色をつけてやってもいい」
それを聞いた曽根崎さんが何か言いたそうに唇をひん曲げたが、気にせず僕は田中さんの案に飛びついた。曽根崎さんのお気持ちと、僕の生活費回収。天秤にかけずとも、どちらに傾くかは自明だった。
「ところで、君は『マクベス』を知ってるかい?」
「いえ、恥ずかしながら……」
早めに受付を済ませて二階席の一番前の列に着席した僕は、田中さんからの問いに肩を縮めた。さきほど彼が口にした題は、まさに今からギロさんが主役を張る劇の名前である。現役文学部生でなくても、一般常識として知っておくべきだと叱られるんじゃないかと思ったのだ。
「そうかい。マクベスとは、イギリスの劇作家シェイクスピアによって描かれた四大悲劇の一つなんだけどね」でも田中さんは特に咎める様子も無く、分厚い緞帳を見下ろしながら言った。
「忠実なる領主だったはずのマクベスが、三人の魔女の『お前は王になる』という予言と妻の後押しを受けて王の暗殺を実行してしまう。だが自らの頭に王冠が輝きながらも、殺人という大罪を犯した彼に安寧は訪れなかった。疑心暗鬼に陥ったマクベスの運命はいかに……と、あらすじはこういった所だ」
「ありがとうございます。田中さんは演劇がお好きなんですか?」
「好きは好きだが、マクベスは特別でね。大学生時分、演劇サークルで僕が主役をやったのがこれだからさ」
意外な事実に目を見開き、隣のロマンスグレーに体を向ける。当の本人はというと、ごそごそと何か探すように袂を探っていた。
「ここは禁煙ですよ」
「ああ、そうだった。すまない、この話をする時はどうしてもタバコを伴にしてしまいがちで」
「あまりいい思い出じゃないんですか?」
「そういうわけでもないけど……。実はその時、僕とギロは同期だったんだ」
「そうなんですか!?」
今度こそ驚きに大声を出してしまった。まばらなお客さんの視線が刺さるのを感じ、慌てて口を押さえて田中さんに目で謝る。彼は、なんてことないと言わんばかりに首を振った。
「無理もない。当時の彼は高校生だったし、そもそも僕とはそれなりに年が離れているからね」
「高校生でも大学サークルに入れるんですか?」
「勿論特例も特例さ。まあ彼の場合はしれっと新入生歓迎コンパに混ざり込み、そのまま入部していたんだが。元々の老け顔と尊大な態度、加えてハナからギロと名乗っていたことも手伝い、三ヶ月後彼が自ら白状するまで大学生ですらないと気づく者は誰もいなかった」
「むしろ三ヶ月もバレなかったんですか……。高校は?」
「まともに行っていなかったことには間違いない。ただ彼の口癖は『役者で食ってく』だったから、さしたる問題でも無かったんだろう」
「ええー……自信家というか無計画というか」
「だが、自負を裏付けるだけの実力は確かにあった」
その時のことを懐かしんでいるのだろうか、田中さんは銀縁眼鏡の奥の涼やかな目を細めた。
「こんな話がある。疑心暗鬼に陥ったマクベスには目の敵とするマクダフという男がいたんだが、このマクダフには幼い息子がいた。最終的にその子供は母共々マクベスに殺されるのだけど、愛らしい聡明さは劇中でも印象的でね。で、僕らがマクベスをやると決めた際、最年少であるギロがその役に抜擢されたんだ」
「高校生ですもんね。っていうか思ったより自由だな、大学演劇……」
「しかし、合わなかった」田中さんは深い溜め息をついた。
「あどけない子供役は、致命的なまでにギロに合わなかった。無邪気さを演じるには白々しいほど、あまりに彼は世間擦れし過ぎていた」
「高校生なのに!?」
「『お前のような子供がいるか』『マクダフより危険視されそう』『本当にかわいくない』と評判も散々で、実際ギロ自身も乗り気じゃないのがミエミエだった」
「でも田中さん、今ギロさんの演劇の才能について話してくれてるんですよね? さっきの話だと全然ダメダメっぽいですけど……」
「……それ故ギロは、自分から演じたい役を志願した。それが、“老人”という役だった」
老人。数分前に田中さんに教えてもらったあらすじには出てこなかった役である。聞けば、マクベスが王を殺した次の日の夜に、屋敷の外で領主の一人と話していたお爺さんのことらしい。
「一場面にしか出ず、僅かなセリフしか無いいわゆる端役だ。しかし……」
田中さんは金色の懐中時計を懐から出して、またしまう。開演まであと十分程だったからか、彼は少しだけ言葉を早めた。
「ギロは、これを完璧に演じきった。たった一瞬で、観る者全てにその老人の実在性を信じ込ませたんだ」





