16 壊れた石
「……手術を終えた彼女は、物言わぬ植物状態となって帰ってきた。数年後、重度の臓器不全で亡くなってしまうまでずっと美しい眠り姫だったよ」
曽根崎さんの事務所にて、田中さんはぽつりぽつりと灯子さんとの思い出を話してくれていた。倉庫での一件からまだほんの一日しか経っていない午後。僕は田中さんに壊れてしまった石を渡すため、彼と向かい合っていた。
偽司祭を無力化した直後、どっと警察がなだれ込んできてその場にいた全員を取り押さえた。合図をしたのは僕だ。本当は田中さんからの指示を待たなきゃいけなかったけど、緊急時にはその限りじゃないとも言われていた。だから偽司祭を殺されて錯乱した種まき人の一人が田中さんに銃を向けたのを見て、急遽警察に合図を出したのである。なおこの時の僕は、天井に取り付けられた窓にヤモリみたいにはりついて倉庫内の様子を眺めていた。あれは身震いするぐらい高くて怖かったなぁ。
だけど結局事件はあやふやの内に終わり、種まき人の所業が公になることはなかった。もしかしたら鰐淵の言う通り権力を持った構成員の工作があったのかもしれないけど、僕は知らない。
「と、こうして僕は曽根崎君の後見人になったんだよ。もっとも彼の第一印象は最悪だったがね」田中さんは僕の入れたコーヒーを一口飲んで言う。
「どこで会ったんですか?」
「一応事務的な手続きで顔を合わせることもあったが、まともに会話したのは彼女の葬式の時だったかな。彼女が生きている間は話すのを僕も曽根崎君も避けていた。ほら、僕の出番は彼女が死んだ後だからね」
「……どんな会話を?」
「それは――」
『や、やあ。えーと、慎司君……だっけ?』
『は? 馴れ馴れしく名前呼ぶなよ。キモ』
「信じられるかい!? 『キモ』だよ、『キモ』! ほぼ初対面であり今後世話になる僕に向かって奴は『キモ』と言ったんだ! まったく、チンパンジーに育てられた子供のほうがまだ礼儀を知ってるってもんだね!」
「遠回しに灯子さんの悪口言ってますよ、田中さん」
「だから最初はとてもあの彼女の子だと信じられなかった。けれど探偵も産院も役所も口を揃えて血縁だと言うんだ、思わず天を仰いだとも!」
「それは流石にちょっとキモいですね……」
「ガニメデ君まで!」
「産院てアンタ……」
呆れながらも僕は彼のカップにコーヒーを足してやる。ところで肝心の曽根崎さんはというと、一時間ほど前に所用で出ていったままである。田中さんに会いたくなかったのかなと勘繰ったけど、いたらいたで静かに田中さんの話を聞けなかっただろうし結果オーライだ。
「言っとくが、曽根崎君との顔合わせが遅れた理由はそれだけじゃない」
田中さんは言い訳がましくならないよう、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「彼女が植物状態になった直後は僕も忙しかったんだよ。なんせ種まき人の集団自殺事件が起こったからね、大混乱に陥った政治経済を立て直すよう大いに奔走していたのさ」
「あの事件ってその時のことだったんですか。偶然とはいえ悪いことは重なるものですね」
「……さあ。本当に偶然だったのかな」
その一言に僕は違和感を抱いた。言葉としては疑問形である。でもこめられた感情には、むしろ断定的なまでの否定が感じられたのだ。
田中さんは、灯子さんの病状悪化と集団自殺事件に関連があると考えているのか? なんで? その根拠は……。
「……」
でも、今ここで僕が首を突っ込むのは躊躇われた。僕の種まき人に関する知識は薄い。そんな状態で彼の思想に踏み込んだ所で、理解できないかあるいは無知故の浅はかな発言をして彼の心証を悪くするんじゃないかと思ったからである。
代わりに石の話に戻そうと僕は舵を切った。
「そういえば、田中さんが灯子さんに好きな石を聞いた理由って婚約指輪を作るためだったんですね」
「ああ、そうとも。結局聞けたのは嫌いな石で、しかも特に好きな石は無かったから色だけしか合わせられなかったけれど」
「お渡しできてたらきっと喜んでもらえたと思います」
「いやいや、とんだ勇み足さ。……君は優しいね。この話をした時、曽根崎君は腹抱えて爆笑しやがったというのに」
「あの人でなしと一緒にしないでください」
「……だがね、本当に初めてだったんだよ」
多分、無意識の仕草だろう。田中さんは左手を持ち上げると、慈しむように薬指を見つめた。
「誰かの指に、自分と揃いの指輪が嵌っていて欲しいと願うなんてさ」
――その時の僕は、彼にどう答えるのも間違っている気がしたのだ。肯定も、同情も、僕が示せばどれも安っぽくなってしまう。だから黙ってうつむくことで返事としたのである。
自分の左手の薬指を見つめる。灯子さんは、どんな色を好きだと伝えたのだろう。
「……石が壊れたのは残念でしたね」
「いや、あれはあれで良かったよ。彼女から受け取った願いの一つだからね。もちろん僕の手で壊せなかったのは残念だけれど」
「もう一つの願いはぜひ叶えてください」
「曽根崎君を見守るやつ? 僕が彼に教えてやれたのなんてタバコの味ぐらいだよ。そろそろ君にバトンタッチしてお役御免といきたいね」
「なんで僕?」
「タッチ」
「うわっ、あぶねっ」
ギリギリでかわしておいて、そっと布に包んだ例の石を差し出す。といっても原型は無く、ただの小石群なのだけど。それに一瞥をくれた田中さんは、存外さっぱりした顔で首を横に振った。
「もう僕には必要無いよ。必要なら財団の研究機関に回してくれ」
「いいんですか?」
「ああ。それは単なる約束の残骸だ。彼女じゃない」
そういうものなのかな。でも、田中さんが言うならそれでいいんだろう。僕は「わかりました」と答えると石をしまった。
それで田中さんとの話は終わりだった。彼は迎えに来た六屋さんに車を新しくしたいとブー垂れて叱られながら、事務所を後にした。見送った僕の手には高級まんじゅうの紙袋が提げられている。六屋さんはほんと律儀な人だ。
そうして事務所の階段を一段一段踏みしめながら、僕は灯子さんという女性に思いを馳せていた。曽根崎さんと同じ真っ黒な目をした、知的な人。以前、彼と共に彼女のお墓参りをしたことがある。僕が両親と縁を切った直後で、曽根崎さんに「君も入る墓が無いならここに入ればいい」と言われたっけか。あの時は「お母さんもびっくりするでしょう」と答えけど、今なら多少の世間話はできるのかな。
……いや、やっぱり無理か。実の子であり、そのお母さんに愛されていた曽根崎さんはともかく僕は――
「おかえり、景清君」
物思いに沈む僕の頭上から曽根崎さんの低い声が降ってくる。顔を上げて二度驚いた。曽根崎さんの後ろから、ギロさんがひょっこり顔を覗かせていたのだ。僕の視線に気付いた曽根崎さんは、ギロさんに向かって顎をしゃくってみせる。
「実は三十分前に帰ってきてたんだが、コイツがどうしても田中さんと顔を合わせたくないと言うんでな。やむなく一旦三階に避難していた」
「あ、確かギロさんって田中さんのお財布盗みっぱなし……」
「お、よく覚えてるなぁ青年! 感心感心!」
「早く返してあげてくださいよ」
「だが不思議なことに中身が消えててな」
「パチンコ行ったからじゃなくてですか?」
「人の金でンなこたしねぇよ」
「す、すいません」
「スロットだ」
「曽根崎さん……!」
「こいつに常人の会話を期待するほうが悪い」
それにしてもなんでギロさんがここにいるんだろう。田中さんに財布を返しに来たんじゃないことはさっき判明したけど……。
「あれ、それ……なんでここに!?」
「お、やっと気付いたな」
僕の疑問の答えを左手に握る曽根崎さんは不審者面をニヤリとさせる。彼の手に収められていたのは、黒っぽくてつやつやした丸い石だった。





