15 彼女が最後に呼んだ名は
医療現場が白を基調とする理由は様々だが、今の田中にとってのその色は残酷なまでに他の情報を削ぎ落とし、彼女の存在だけを際立たせていた。ほとんど皺の無いベッド。外された呼吸器。見落としかねないぐらい静かな胸の上下。慌ただしく入ってきた彼を咎めない看護師。
まばたきすらできない緊張状態の中、田中はこれから自らに待ち受ける事実を決して飲み込むまいとしていた。それは棘のついたゴム玉のように、田中の身を内側から傷つけると分かっていた。
「時國さん」
だがそんな状況でも、彼女の声はあまりにも穏やかに彼の耳に潜り込んできたのである。
「お願いです……もう少し、こちらに来てください」
灯子の息子――慎司は、学校行事で遠方にいた。今彼女の声を聞ける身近な人間は、自分しかいないのだ。
目眩を覚えつつも、田中はベッドの近くへと赴いた。重さの無い布団から覗いた冷たい手に触れる。そういえば手を握ったのも初めてだと、今更自分を滑稽に思った。
「つい先ほど……体調が悪くなりまして。緊急に手術をすることになりました。ですが……失敗する可能性のほうが高い、そうです」
普段なら深夜に呼び出した非礼を詫びる彼女が、すぐに本題に入ろうとしている。命の灯火が目の前で揺れた幻覚を田中は振り払い、無理矢理笑顔を作った。
「それがどうしたってんだい。まさか君ほどの人が弱気になってるんじゃないだろうね? 知ってるだろう、健全な精神は肉体にポジティブな影響を与えるんだ。証拠として今からいくつか著名な論文を取り寄せ君の前に掲げてみせたっていい」
「いえ、私はもう戻ってこられないでしょう。だから、あなたと話しておきたかった」
「……戻ってこられないなんて、間違っても口にしないでくれ。大したことじゃないよ。絶対に良くなる。気を強くもっていれば……」
「時國さん、私は――」
言いかけて、灯子は口をつぐんだ。布が擦れる音がして、彼女は小さく息を吐く。
「……そうですね。少し混乱していました。すみません、ご心配をおかけして」
「気にしないでいい。そのために僕はここに来たんだ」
だが田中の心情はまったくもって安堵に至っていなかった。彼女は本題に入るために田中の望む言葉をなぞっただけだと分かっていたからである。
「……お伝えしたいのは、慎司のことです」
灯子の視点は定まらない。既に病気のために視力が弱っているのだろう。
「私は、あの子が幼少の頃から病弱でした。何度も倒れ、入院し、あの子を一人ぼっちにしてきました。……恥ずかしながら、私は駆け落ち同然に家を出ています。頼れる親族もいなかったんです」
「続けて」灯子の抱えていた背景に動揺しつつも、田中は極力優しく促した。
「だから私は、突然私がいなくなっても困らないよう慎司にあらゆることを教えてきました。日常生活の送り方、身の守り方、読書、有効な制度、法律、お金の使い方、運用方法……」
「運用方法?」
「父は資産家でした。駆け落ちする際に持ち出した資金を元手に今も上手く運用しています。慎司にも専用口座を用意し勉強させてきました」
「つくづくたくましいね、君は……」
「ですが……私は焦るばかりに、間違えてしまったんです」
灯子が田中の手を握り返す。涙の滲んだ真っ黒な瞳には、今にも泣き出しそうな田中の顔が映っていた。
「私は、慎司を一人で生きていける子にしてしまいました。あの子は本当に賢い子で、教えたことならなんでも覚えてくれました。だけど人は……人である限り、どうしても脆く足りない部分があります。なのに時間の無かった私は、表面ゴトばかりでそんな一番大事なことを教えられませんでした」
「……」
「……慎司は、今まで『寂しい』と私に泣きついたことがありません。あの子は、自分の中にあるどんな欠落も一人で補おうとしているんです」
美しい顔が胸の痛みにしかめられている。けれど彼女の声は、ますます熱と力強さを帯びていた。
「だからお願い、時國さん。どうかあの子を見てやって。困った時に、あの子が手を伸ばせない時に、無理矢理でも手を引いてあげられるように。……出会ってからずっと、私にそうしてくれていたように。どうか、あの子にも……」
彼女の一言一言を聞きながら、田中は何一つ言葉を発せないでいた。――ああ、だめだ。これじゃまるで遺言じゃないか。断るべきだ。手酷く断ったなら彼女は僕に失望し、息子を育てられるのは自分だけだと生きる気力を取り戻せるかもしれない。言え、言え。強く手を振り払って、僕はそんなつもりじゃなかった、子供なんてお荷物はまっぴらだって――
「わかった」
だがかろうじて聞き取れるほどの声で、田中はそう答えたのである。
「全部、僕に任せてくれ。僕が君の子供――曽根崎慎司の後見人になろう。彼が困った時には手を貸すし、君が教えられなかったことも教えてやる。持ち得る全ての力を尽くし、必ず慎司君の助けになると約束しよう」
「時國さん……ありがとうございます。本当に、ごめんなさい……」
灯子はようやく微笑んだ。近くにいた田中にだけ分かる、ほんの僅かな表情の差異で。
田中は知らず知らずの内に手を強く握っていた。そうすることで、かろうじて灯子にすがりつかずに済んでいたのである。けれどそこでやっと、自分が握っているのが彼女の左手であること、自分はあれから肌身離さず指輪を持っていたことを思い出した。
「と、灯子君。実は僕も君に伝えたいことが――」
「恐れ入りますが、これ以上は危険です」
だが田中の決意は医師に遮られ、看護師の当たり障りのない手つきで灯子と引き離された。彼女の顔色は一層悪く、もう汗をかく体力すら無いようだ。
「彼女の強い希望により時間を設けましたが、今は一刻を争う状態です。お気持ちはお察ししますが、どうぞこれ以上の接触は堪えてください」
彼は良い医者なのだろうと思った。患者の要望をギリギリまで聞くだけでなく、こちらの気持ちまで慮ってくれている。けれど、胸にあふれる感情だけはどうすることもできなかった。
「灯子君!」田中は彼女に近づこうとした。引き止める看護師の指が強く腕に食い込む。
「必ず帰ってくるんだぞ! 僕は君の話を聞いた! 次は君が僕の話を聞く番だ! 絶対だ! 約束だからな!」
我ながら子供っぽい有様だったと思う。だけど悪い予感ばかりが胸を渦巻いていて、不安で不安で大声で喚き泣き出したい気持ちだったのだ。
灯子は、じっと天井を見つめながらキャスター付きのベッドごと看護師に運ばれていった。けれど、田中の隣を通り過ぎる瞬間。
「慎司……」
――あまりにも。
あまりにも痛々しい母の声が、色を失った唇からこぼれるのを聞いたのだ。
それが、彼女が最後に呼んだ名だった。幾度となく繰り返された、代えがたいたった唯一の愛しい名。
田中はその場に崩れ落ちた。――彼女はもう二度と帰ってこないと。そう気づいてしまった。理解してしまったのだ。
「……灯子君」
空っぽでひとりぼっちの体からは涙すら出てこない。そうして顔だけを覆ったまま、田中は誰に届ける声もないまま冷たい床に向かって慟哭していた。





