14 灯子
「へ、子供いるの?」
灯子との出会いから三ヶ月後。彼女と時々会うようになっていた田中は、不意打ちの告白に危うくコーヒーを吹き出すところだった。
「はい、小学生の子が一人。思わしくない私の体のせいで苦労をさせていますが」
「だが君は結婚していないと言ってたじゃないか」
「とっくの昔に離婚していますので」
「へえ。じゃ、じゃあその……今は、元旦那とは?」
「さあ。家のお金を持って女性とトンズラした人です。生きてはいるでしょうが興味は無いですね」
「君にしては絵に描いたようなクソ野郎と結婚していたんだね……」
「若気の至りですよ。もちろん、慎司を産んだことは後悔していませんが」
その名に何故か田中は胸が掻き乱された。物質でないからこそ何者にも奪えないもの。それを他でもない彼女によって贈られた存在に、どうも彼は軽い嫉妬心を抱いているらしいと自覚した。
「……会ってみたいな」
その言葉は半分本心で、半分は嘘だった。
「君に似ているのなら聡明だろう。きっと僕とも話が合う」
「どうでしょう。確かにあの子は聡いのですが、あなたとは同族嫌悪が生じる可能性のほうが高いかもしれません」
「それほど賢いのかい?」
「今の返答なんかもそっくりで」
「何笑ってるんだい?」
だけどいつも話はそこまでだった。この時の田中は既に両親から莫大な財産と事業を相続した直後で、煩雑な処理に追われていたのである。だからそのカタがつくまでは灯子に踏み込むまい、踏み込ませまいと考えていた。とはいえ勘の鋭い彼女である。もしかしたら自分の身上におおよその目星はつけられていたかもしれないと田中は後に思った。
何もかも話せるわけではない。そんな自分を彼女がどう思っていたかはわからない。それでも田中時國という男にとって、澄んだ川のような知性を持った灯子と過ごす時間こそが張り詰めた神経を解きほぐせる唯一の場所だったことには違いなかった。
「実は、君に伝えたい話があるんだ」
ある日、カフェのソファから立ち上がろうとした灯子の細い指に触れ、田中はそう口にした。彼女の肩にかかった少しうねりのある髪が揺れる。一瞬怖気づきそうになった田中だが、なんとか声を絞り出した。
「ひょっとすると迷惑、かもしれないけど。でもこの僕がこう考えるのって全くもって珍しくてだね? ね、願わくば君も似た感情を抱いていてくれればと、期待しないでもなくて……」
いつもより巡りの悪い頭の片隅では、彼女が好きだと言った色の宝石のついた指輪がチラついていた。あわせて、事前に相談していた双子の兄・田中宙國との会話も。「付き合ってもないのに指輪付きプロポーズは正直重くない?」「いや、彼女は貰った指輪を淡々とネットオークションで売れる人だから」「だから何だってんだ。段階を踏めと言ってるんだよ」「段階踏んでる間に元旦那が帰ってきたらどうするんだ!」「財力で潰すといい」「嫌だそれだと財力でしか勝てないみたいじゃんか。僕は先手を打ちたい」「トキ君はせっかちさんだねぇ」――。
「話?」
灯子は真っ黒な瞳に田中を映して不思議そうに首を傾げた。けれどすぐに田中の言葉の意図に気づいたのだろう。口元を手で隠し、おかしそうにコロコロと笑った。
「なんですか? あなたからの話は何でも面白いから期待してしまいます」
そんな彼女の顔にしばし見惚れてから、慌てて頭を振って我に返る。少しずれた銀縁眼鏡を震える手で戻し、田中は姿勢を正した。
「それが実際に話をするのはもう少し先になるんだ。少しだけ僕の仕事が立て込んでいてね……。一段落したら改めて時間を取り、僕と会ってほしい」
「今じゃだめなんですか?」
「も、申し訳ないけど……」
「……そうですか。本当に大変な案件みたいですね」
静かに頷いた灯子の顔を田中はじっと見ていた。僅かな時間、そこには憂いと寂しさが宿っていたように感じた。けれどそれも彼女が顔を上げるまでである。
「わかりました。お待ちしております」
「あ、ありがとう」
「いえ、時國さんのお仕事が滞りなく終わりますように。お話、楽しみにしてますね」
「ま、君ほど上手く伝えられる気はしないけどさ」
照れ隠しに口にした言葉だったが、すぐに自分の本心から出たものだと気付いた。これだけを話すのにもたどたどしい自分が、彼女と出会った感動を余すところなく言葉にするなどできるわけがない。だというのに、今からその瞬間が待ち遠しくてたまらなかったのは田中自身も不思議だった。
早く仕事を終わらせて彼女に会おう。あふれる感情をどうにか伝えよう。期待と不安がない混ぜになった空想が広がって、自分の未来を浸していく。しかしそんな想像は、栓を抜いた水のように一瞬で枯れてしまったのだ。
「――灯子君が、危篤?」
それから三日も経たぬ内に、田中の元に病院から連絡が入った。確かに定期的に病院に通わなければならない彼女の容態は良いとは言えなかった。しかしここ数年は小康状態を保っていたのだ。何故、今になって――。
いや、考えている余裕は無い。田中は三十分で全ての業務にケリを付ける(一部は放り出す)と、タクシーを急かして彼女のいる病院へ向かった。
気が気じゃなかった。両足は雲を踏んでいるようで、目に映る景色は水の中にいるかのようにぼやけていた。動悸が激しい。なのに表情筋は固く強張っていて平常の顔はとうに思い出せなくなっていた。
だから田中は、彼女がこんな状況で彼を指定した意味すら思い至らなかったのである。
「灯子君!」
病室に入るなり田中は叫んだつもりだったが、実際出てきたのは哀れなぐらいに掠れた声だった。無機質なベッドの上には、灯子の細く白い体が力無く横たわっていた。





