12 君は、
司祭は――いや偽の司祭は、巨大な口を開けて石を飲み込もうとしていた。けれど咄嗟に曽根崎さんが動き、石を掴む。
「ッ!?」
けれど何故か石の落下は止まらなかった。強力な磁力で偽司祭の腹の奥に引き寄せられているかのように。
曽根崎さんは引き攣った笑みを浮かべている。何か呟いていたのは呪文を唱えたからだろう。けれど効かない。効く存在ではないのだ。
それでも、彼は手は離さなかった。
「撃て、田中さん!」
恐怖が滲んだ声で曽根崎さんは叫ぶ。
「これは司祭どころか人ですらない! 石は譲渡されると言っていた! 一度腹の中に入れば二度と取り出せない!」
彼の手には既に口内の歯によって血が滲んでいる。このまま石を掴み続ければどうなるかは、想像だにしたくなかった。
汗ばんだ手のひらを握る。田中さんからの合図はまだ無い。
「……生憎だが」
ゆらりと和装の影が動く。寸分の迷いもなく、銃口の狙いは定められた。
「僕が撃つのはこっちだ」
破裂音と共に曽根崎さんの腕が弾かれた。撃たれたその手に石は握られておらず、代わりにばくんと偽司祭の口が閉じる。間髪入れず放たれた弾丸は偽司祭を貫き、ずんぐりした体を跳ねさせた。一発、二発、三発、四発、素早く弾を入れ替えてまた一発。そのたび偽司祭の四肢は反動に暴れたが、何故か一滴の血も飛び散らない。
そして合計七発の銃弾を撃ち込んだ所で、音は止んだ。
「……!」
曽根崎さんは即座に偽司祭の体に飛びついた。片手を銃で撃たれているはずなのに右手でナイフを掴めてるのは、ひとえに彼の痛覚が人より鈍いからだろう。もしくはアドレナリンによって痛みが一時的に麻痺しているからか。
偽司祭の喉にナイフが突き立てられる。深い位置で肉が引き裂かれる。やっと赤色の液体が流れ出てきたが、僕の知る血とは違ってやけに粘度が高いように思えた。その得体の知れない薄ピンク色の中に、曽根崎さんは躊躇い無く手を突っこむ。
瞬間、ハッとした表情になった。彼の額から汗が滴り落ちる。
「……石、が」
恐る恐る引き抜かれた手に握られていたのは、石だった。かつて石だった残骸だった。
「割れている」
「……」
もはやどうあっても小石としか呼べない黒い鉱物が、田中さんの足元に投げつけられる。それは何の変哲もない音を立てて、悲痛な面持ちを浮かべた彼の見下ろす場所にパラパラと転がった。
「……比べられるものか」
彼がうつむいていたのは、責めるような曽根崎さんの視線を避けるためだったかもしれない。
「君は、彼女の子なんだ」
その時の僕には、田中さんがあの一瞬でどれほどの葛藤をねじ伏せたかなど一切知る由もなかったのである。
出会いは、病院の待合室だった。
その日の田中は、ひょんなことから風邪をこじらせて病院の厄介にならねばならなかった。流石に三日も声が出ないのでは業務に支障が出る。彼は首にタオルを巻きつけ、颯爽と病院を訪れたのだ。
そこで、珍しくもないが彼にとって重大なトラブルが発生した。なんと彼の名が待てど暮らせどさっぱり呼ばれなかったのである。
今よりずっと地に足のついていなかった田中は、怒り心頭で受付に詰め寄った。しかしまともに声が出ない状態では、満足に怒鳴り散らすこともできやしない。苛々しながら手元の手帳に文字を書き殴っては受付に掲げていた時である。
「あの、良かったら私とお話ししませんか」
淀んだ待合室の空気に涼やかな声が落ちたのだ。――振り返って見た彼女の姿は、今もなお額縁に入った写真のように彼の夢に現れるほど美しかった。
肩まで伸ばした髪に、切れ長の目。ほっそりとした背の高いその女性は、恐れも媚びも存在しない無表情で彼を見つめていた。
「……えーと、君は?」
「曽根崎といいます。曽根崎灯子」
「曽根崎さん。お話しって?」
「ご興味を持っていただけたなら、私の隣へどうぞ。ああ、ちゃんと受付を済ませてから来てくださいね」
その言葉に、田中は急いで受付に確認を取って彼女の隣の椅子に腰かけた。漂うふんわりとした柔軟剤の香りが鼻腔をくすぐった。
田中は遠慮がちに耳障りな咳をして、自身の喉を指差す。
「僕からのお喋りは期待しないでくれよ」
「ええ、承知しております」
しかし一体何を話してくれるというのだろう。よっぽどのものじゃないと僕は満足してやらないぞと、そう冷やかし半分で足を組んでいた田中だったのだが。
「ではまず、ゴキブリの話から」
「え、ゴキブリ?」
秒で平常心は吹き飛んだ。
「ええ。ご存知ですか? ゴキブリの雄は積極的に育児に参加するんです。だから育児放棄をする人間の父親を捕まえて、ゴキブリとなじるのはゴキブリに失礼なんですよ。ゴキブリは我が子の為に餌を運ぶのですから」
「え?」
「育児放棄といえばパンダって二匹の子供を同時に産むんですが、どちらかしか育てなかったりするんですよね。というのも、二匹産むこと自体より強い方を選ぶためという説があり……」
「待って待って」
「はい?」
淡々とした口調で話す灯子を押し留める。見つめた彼女の瞳は、夜の闇のように真っ黒だった。
「……雑学?」
「つまらなかったですか?」
「いや、ええと……別にそうじゃないけど」
「なら構わないじゃないですか。それとも選んだテーマがまずかったですか? では次はキリンの鳴き声の話でも……」
「待って待って」
「なんですか」
二度も止められると流石に気に障ったようである。初めて表情を変えた彼女だったが、それが思いの外子供っぽい拗ねた顔だったのでつい田中はガラガラの喉で笑ってしまった。
「……やっぱいいや。続けてくれる?」
「途中で言葉をやめられると気になるものですが」
「面食らってただけだよ。どんな話を聞かされるのかと思えば動物の雑学だったから」
「好きそうなお顔に見えましたので」
「そんな顔この世にある? ま、せいぜい持ちネタが尽きないことを祈っておくよ。僕の名が呼ばれる時までね」
「ご心配には及ばないかと。こうして寝物語のようにお話しするのは慣れていますので」
そう言って微笑んだ灯子だったが、かくしてその語りは絶妙だった。人とは違った形を持つ生命体の織りなす、興味を掻き立て好奇心を満たす物語。途中など、退屈を持て余していた子供が数人ソファー越しに振り返って彼女の話に耳を傾けていた。さながらそれは病院の一角で開かれる青空学校のようであり。おかげで田中はこのたった数十分の内に、自分の名が呼ばれても腰を上げるのを躊躇うほど彼女に引き込まれてしまっていた。





