8 種まき人講座
――しばらく経ってもなお、僕は事態を飲み込みきれないでいた。信じられなかったけど、間違いなく鰐淵の姿はあの場から無くなっていた。ただ、赤色と黄色の混ざった不潔な液体と衣服を残して。
「……目から溶けたって言ってましたよね」
僕は隣の座席に座る曽根崎さんに尋ねる。
「あれ、本当なんですか?」
「本当だよ。鰐淵は眼窩から目玉を落とした後、そこからどろどろと溶けた肉を吐き出し始めた。どういう原理かはわからない。だがやがて彼の皮膚も蝋のように融解していき、最後はパシャンと弾けてしまった」
「想像するだにエグいですね……。呪文を失った副作用でそうなったんでしょうか」
「その可能性は高い」
「じゃあ曽根崎さんも呪文を奪われたらそうなるんですか?」
「いや、ケースが違うな」彼は少し首を傾げて答えた。
「私の場合は呪文没収じゃなく契約破棄にあたるだろう。つまり、今まで呪文を使って凌げていた身体的及び精神的ダメージを一身に負うことになる」
「……そうでしたね」
「まあ必ずしも死ぬとは限らんが」
「アンタ今まで何回呪文使って危機を逃れてきたと思ってるんですか。死ぬだろ」
げんなりとした気持ちになる。彼は呪文を得るにあたって、黒い男から一方的に不利な契約を結ばされていた。途中破棄のリスクなら、その辺の携帯会社なんか目じゃないぐらい悪質である。
僕らは今、田中さんの手配してくれた車でギロさんと石の元へ向かっていた。田中さんは別の車で移動し、阿蘇さんは一旦丹波さんと合流するとのことだそうだ。……静かに流れる窓の外の景色は、テレビ映像のように無機質である。高級そうなふかふかのクッションも相まって、今自分がここにいるという現実感が薄くなっていた。
「……悪い夢でも見ているみたいです」
「人生なんてそんなもんだろ」
「いきなり意外な人生観ぶっこんでこないでくださいよ。びっくりする」
「ならば夢かどうか試してみるか? 死んでみたら、案外事務所にリスポーンできるかもしれないぞ」
「流石に同じ怪異は続かないと思いますが……。つーかアンタ、あの事件相当メンタルにキてたのによくネタにできるな」
そんな軽口を返しながらも、窓から意識が逸れると途端に網膜に焼きついた光景が蘇ってしまう。日に照らされ、じわじわと地面に滲んでいく悪臭を放つ液体。青ざめた阿蘇さんの顔。曽根崎さんを見る田中さんの目。
しばらくは怖い夢を見そうだな。そう思って目を擦っていると、ふと曽根崎さんがパチンと指を鳴らした。
「そうだ、ここで一つ種まき人についておさらいをしてやろう」
「いきなり何です?」
「彼を知り己を知れば百戦殆からずと言うだろ。勝ちたいのならば、少しでも敵対組織の情報を得ておくことが肝要だ」
「肝要……」
「それに君、あの組織についてさほど詳しくないみたいだったし」
不審者面がニヤリと歪む。イラッとした僕はスマートフォンを取り出して、さっきまで読んでいたインターネット型百科事典を見せつけてやった。だが「私のほうが面白いしわかりやすい」と大きな手で画面を覆われる。張り合うんじゃねぇ。
「さて、まずは入門編。種まき人は、悪質なカルト組織として世間に認知されていた。ここまではいいな?」
「ええ、まあ」そんなわけで始まった種まき人講座である。舐められたくない僕は、急拵えの知識を総動員して返した。
「二十年前、大勢の人を洗脳して同日同時刻に集団自殺するよう誘導したんですよね? 組織的犯罪じゃ、戦後最悪の死者数だったって……」
「666人。それ以上でもそれ以下でもなく、ピッタリその数だけの死者が出た」
「恣意的な数字ですよね。でも偶然でしょ?」
「何事にも意味を付与したがる人間はそう捉えていない。陰謀論者は、今日も今日とて元気にこの事件を政治経済ご近所トラブルに絡めたがっている」
「意地の悪い言い方するなぁ」
「何にせよ、世間はこの件によって“手のひらを返したように”種まき人を恐ろしいカルト組織だと位置づけた」
「え、それまでは違ったんですか?」
意外な情報につい身を乗り出す。曽根崎さんは、僕の興味を引けたことに嬉しそうだ。
「ああ。かつての種まき人は、愉快で何者にも囚われない新しい人々だと信じられていた」
「なんですか、それ。最終的に集団自殺まで引き起こしたヤバい組織なのに?」
「それじゃ順を追って説明しようか。二十二年前、種まき人と名乗る者らが突然メディアに出現した。バラエティ番組への出演、大々的な慈善活動、著名人との対談……彼らが好意的に社会に受け入れられるまで、さほど時間はかからなかったよ。彼らが掲げていた俯瞰的快楽主義は大いに大衆受けするものだったんだ」
「俯瞰的快楽主義?」
「君はエピクロスという哲学者を知っているか? 快楽主義を提起した者で、現実の悩みや苦しみから開放されることを――いや、下手に引用すると彼の哲学を汚してしまうな。忘れてくれ」
そのあたりも聞きたかったけど我慢する。名前だけ覚えておいて、後で調べてみようと思った。
「俯瞰的快楽主義とは、ざっくばらんに言えば『結果的に最も自分が人生の快楽を得られる行動を旨とする信条』だ。彼らは自分にとってより良い環境を作るためなら、現状への努力を惜しまなかった。たとえばゴミ拾い。作業自体は面倒でも、美しい街を保ちその分犯罪が減るだろうと結論付けたなら、彼らは喜び勇んで行動した。割れ窓理論という説では、モラルの高い環境を作れば重犯罪を抑止できると言われている。つまり、自分が犯罪に巻き込まれる率が減ると考えるわけだ」
「ふんふん」
「より自分が楽しくメリットのある未来のために、社会に種を蒔く――それが種まき人の提唱した哲学だった。この自由で親切な団体は、メディアに取り上げられるなり大いに支持された。特に若者への影響は強かったらしい」
「確かにここまで聞いた限りだと、すごくいい団体に聞こえます。というかそれ、功利主義ですよね?」
「お、知ってたか」
「現役大学生バカにしないでくださいよ」
功利主義とは、社会が幸福であることを目指し自分も他人も幸せであろうとする主義である。確かもっと細かく分類されてたけど、僕はそういう理解だ。
「ここまでの話で終われば私もそう定義しただろう。しかし、実際の彼らは功利主義とはほど遠い存在であり、むしろ利己的ですらあった」
曽根崎さんは首を横に振る。
「言っただろう? 奴らは“自らのメリットのため”に種を蒔くと。……蒔いていたんだよ。道徳的な行いも聞こえのいい言葉も、全てはいずれ来たる収穫の日のための布石だった」
「その収穫って……ひょっとして、集団自殺のことですか?」
「断定はできんが、自殺した者の多くは種まき人の俯瞰的快楽主義の賛同者だった」
「……」
「そして、ここが最も懸念すべき事項なんだが」
断っておいて彼は顎に手を当ててうつむく。この話を切り出したときとはまるで違う雰囲気が、怪異の掃除人の身を纏っていた。
「二十年前、種まき人は二年という時間をかけて信者――同志を集めた。この期間を使って、奴らは周到に着実に集団自殺への準備をしていたと考えられている。で、今。種まき人が同じ名前で活動を再開してから、どれぐらい経ったか把握しているか?」
「えーと……あ、二年……!?」
「そう。加えて黒い男が言った、“壊せぬ石に隠された秘術”と“巨大な目的”――“チェンジリング”。何を起こそうとしているのかはわからんが、またロクでもない目的の為に準備しているのに違いないと私は見ている」
――ロクでもないどころか、また大勢の犠牲者が出るかもしれない。僕は背筋を這い登ってきた寒気に、身を震わせた。
曽根崎さんの不審者面がこちらを向く。だけど濃いクマを引いた鋭い目に宿る光は、いつもより強いものに見えた。
「あの奇妙な石は、今や何が何でも取り返さねばならない重要品へと変化した。まだ不透明な点だらけだが、少なくとも石を確保できれば奴らの狙いを一つ阻止できる」
「そ、そうですね! 頑張りましょう!」
「頼もしいな。その意気だ」
「でも普通に警察に頼むんじゃダメなんですか? これ普通に窃盗事件と銃刀法違反ですよね。ちょっと怖いっていうか……」
「種まき人がごく一般的な人間の集団だと分かれば、アテにできるぞ」
「つまり僕らは人身御供ですか」
「ツクヨミ財団に大金で雇われた先発隊と思え」
「大金? いくらいくら?」
「よーし食いついた」
結局お金で我が身を売ってしまう僕も僕である。でも実際お金は欲しいし、バックアップで財団と警察もついてくれているなら大丈夫かな? それともそう思う僕の考えは、とっくに一般的な感覚と乖離してしまっているのだろうか。
……ん? それにしても……。
「何か大事なことを忘れている気がするんですが」
「大丈夫大丈夫忘れてない忘れてない私達の目的は石の奪還だけだそれだけだ」
「そうかなぁ」
「気を引き締めろよ、景清君。余計なことを考えていては、作戦に支障が出るぞ」
「は、はい! 気をつけます!」
――まあそういう事情で、僕は現地で阿蘇さんに再会するまですっかりギロさんのことを忘れていたのである。





