7 質問、続き
僕と曽根崎さんの質問は答えられた。種まき人は黒い男を「ナイ様」として崇拝し、力を得ようとしていた。実際彼らの一部には与えられたのだ。黒い男と直接契約をしていた、種まき人の司祭の手によって。
呪文の貸借なんて可能なのか。それに鰐淵は“誘導”と“俯瞰する目”の二つの呪文を持っていたはずである。じゃあ司祭の持つ呪文の数はそれ以上ってことか? これまで会った呪文保持者は、曽根崎さん以外全員一つしか持ってなかったってのに。
だけど僕にはもう質問をする権利が残っておらず、口をつぐむしかない。
「もう終わりかな? それじゃ次は僕の番だ」
頬に流れる血をハンカチで優雅に拭い、田中さんが言う。
「あの石にはどんな秘密があるんだい? よもや水槽内に置く石に困ったから盗んだ、なんてバカな話は無いだろう」
「これまた抜け目の無い質問だ。……よろしいでしょう」
黒い男は、鰐淵の苦痛の悲鳴に紛れぬ低い声で返した。
「単刀直入に申し上げます。壊せぬ石には、ある秘術が刻まれているのです」
「ほほう?」
「そしてその秘術を足掛かりに、種まき人は巨大な目的を為そうとしています。それこそ……人類を根底から覆しかねない目的を」
「へえ。どういったものか答えてもらいたいけど、これも一つの質問にカウントされてしまうんだろうね」
田中さんは唯一質問をしていない阿蘇さんを一瞥する。だが阿蘇さんは首を横に振った。
「俺からは聞きませんよ。質問は決まっています」
「おいおい、ひょっとすると人類の危機かもだよ? そんなこと言わずにだね」
「俺の質問をどう使おうが勝手でしょう。それにそれだけでけぇ目的なら、奴らに纏わりつく小事の謎が解ければ見えてくるんじゃないですか」
「そうは言ってもぉ……」
「あれ、爺さんご自慢のツクヨミ財団の情報収集力と調査力じゃ力不足だと」
「む! そんなことはないよ!」
「だったらいいじゃねぇか。つーわけだ、俺の質問に答えてくれ」
友人のような気安さで、しかし決して油断の無い口調で阿蘇さんは尋ねる。
「種まき人が呼ぶチェンジリングについてだ。この鰐淵って奴からも聞いたが、脳みその代わりに銀色の脳モドキが入ったアイツらについて教えて欲しい」
「……承知しました」
鰐淵の悲鳴が消える。後頭部のファスナーが閉められたのだ。
「チェンジリングとは、種まき人の造り出した異形の存在です。人体をベースとし……いえ、母体としたと言うべきでしょうか。ともあれ彼らはある処置により、人の域を超えた強大な力の会得に成功したのです。中には逃走した個体もいたようですがね」
「逃走も、逃走先で引き起こした事件も全部知ってるくせにしらじらしい。しかも止めるどころか手助けしているときたもんだ。それも上層の娯楽のためってやつか?」
「……」
「ある処置についても聞きてぇが、もう質問はおしまいだな」
「お察しの通り。私もそろそろ“目”を回収し、お暇せねばなりません」
そう言うと男は鰐淵に向き直った。……もう曽根崎さんの呪文の効力は消えているはずである。なのに鰐淵は、ガタガタと震えるだけで一歩も動こうとしなかった。
「お、お許しください、お許しください……!」
「何を許しを乞うことがあるのでしょう。先ほどまで私の登場にあれほど歓喜してくれていたというのに」
「ですが貴方は俺を殺す気だ! めめめ、目を回収するって……!」
「恐れる必要はありません。貴方とて適材適所という言葉はご存じでしょう? 俯瞰の役目は終わりました。今より目は別の者の操る所となります」
「嫌だ! 助けてくれ!」
鰐淵は抜けた腰を引きずって曽根崎さんに縋りつこうとした。
「アンタさっきの呪文でコイツを止めてくれよ! お、俺はその間に逃げる! 金なら出す!」
「生憎と私の呪文もコイツから授かったものでして。ご期待には添えられないかと」
「やるだけやってみろ! そうじゃなきゃお前を殺してやる! 俺にはその力がある!」
「では今その力を使って身を守ってはいかがか」
淡泊に突き放す曽根崎さんだったけど、別にわざとじゃないんだろう。曽根崎さんにだって打つ手は無いのだ。
「嫌だああああああ! なんで! なんで下層如きが俺の言うことを聞かない! お前警察だろ! 俺を守れよ! 何なんだよ!」
今度は阿蘇さんに向かって喚き這いずる鰐淵に、黒い男は一歩一歩近づいていく。まるで路傍の花をよく見ようとするかのように。
何が起ころうとしているのか僕にはわからなかった。でも人が殺されようとしているのなら助けなければいけないんじゃないか。そう思った僕が、一歩踏み出そうとしたその時である。
「――」
曽根崎さんの呪文が、僕の体を縛った。無抵抗のままゆっくりと景色が横倒しになっていく。視界の隅で、田中さんの体も崩れるのが見えた。
「感謝しなければなりませんね、曽根崎。子羊を浜に打ち上げられた魚に変えてくれたことを」
「……貴様の為じゃ、ない」
僕の位置から鰐淵は見えない。でも彼の悲鳴が聞こえないのは、曽根崎さんの呪文を聞いてしまったせいだろう。精神を消耗させてまで、僕や田中さんを止めるために放たれた呪文を。
「いい子ですね……。さあ夢を見るのです」
男の声以外、一切が無音だった。外にいるはずなのに、鳥の鳴き声や車のエンジン音さえも無かったのである。それがどれほど不気味だったか。どれほど胃を締め付けるものだったか。呼吸もままならなかったはずの僕は、目の前にあるいやに鮮やかな灰色の石の色と光沢を凝視していた。
ぐじゃり、ぐじゅると粘着質な音が混ざり始め、男の声はか細くなっていく。連想したのは、みちみちに肉が詰まった風船に細長い口を突き刺し、無理矢理吸い出す一匹の虫。
「“見下ろす目”は、精神と深く結びつかざるをえないもの」
再び静寂が戻った時、黒い男は呟いた。
「無理矢理奪うとなれば、命が付随するのは致し方なし」
そうしてサッと黒い霧が晴れたのだ。照り付ける太陽に肌を焼かれるのを感じながら、ようやく僕は自分の四肢に自由が戻っていると気づく。なのに、起き上がろうと決意するのには数秒の時間を要した。
「……曽根崎さん。鰐淵は」
僕の声は震えていた。恐怖を抑える術すら忘れていた。
「――溶けた」
だから、彼の一言に殴られたような衝撃を受けたのである。
「目から融解した臓器がこぼれ、皮膚の境界が無くなり……彼は、液体へと成り果ててしまった」





