8 付随する記憶
割れんばかりに痛む藤田の脳に、土石流のように知らない男の情報が流れこんできていた。親の顔、友人の癖、好きなもの、嫌いなもの、幼い頃の思い出、昨日見つけた足のあざ、影響された映画――。
“入れ替えられようとしている”。目まぐるしく変わる映像の中で、藤田はそう感じていた。自分の記憶を塗り替え、同化し、脳に映るこの男に執着の対象を移されようとしている。このインストールが完了したなら、きっと彼は自分にとってかけがえの無い存在へと変わっているのだろう。
(……)
元より藤田は、さほど自分の体に執着があるほうではなかった。むしろ切り売りし施すことで喜ぶ者がいるのなら、そうすべきだとさえ考えていた。
利他的、奉仕的、善人、慈愛の人。そう形容されてもおかしくない彼は、他方どこか人と一線を引いた部分があったのである。親切を尽くそうとも、あえて踏み込まない。それはある者に言わせれば、自分自身に踏み込ませない為の無意識の措置だったそうだが。
(!)
ふと、太陽の熱を思い出す。それを遮って笑う一人の男の子と、記憶に付随した感情も。思えば、生まれて初めて藤田直和という個に生じた欲だった。単純で、子供らしい、けれど強烈でどうにも抗いがたい衝動。
だが置き換わる。少年の顔は粘土のようにぐにゃりと潰され、捏ねられ、知らない誰かの表情を形作った。――いや、ゴミ神様である男の顔を。
「ナオ」
知らない声が。知っている声が。聞き馴染んだはずの声が。
「おれを おれの からだを ……」
「邪魔だっつってんだろ!」
トドメに池賀を蹴り飛ばし、阿蘇は藤田の傍に走る。彼がゴミ神様に語りかけてから、ものの三十秒と経っていない。しかし対象の精神に影響を与えるには十分な時間だと、阿蘇は己の兄を通して知っていた。
「藤田! 聞こえるか! おい!」
ぐったりとした藤田を抱き起して揺さぶるが、目を覚ます気配は無い。舌打ちをし銀色の楕円体を探すが、誰かに持ち去られたのかどこにも見当たらなかった。
「ゴミ神様……」
その上、彼が気にしなければならないのは藤田だけではなかった。近くにいた一人の女がナイフを手にし、自らのこめかみに当てているのである。阿蘇は即座にナイフを蹴り弾いたが、他の信者らが我先にと群がった。
――まさか、ゴミ神様とやらは全員にこの狂気を伝播させたのか? だとしたら早く対処しなければ、多くの犠牲者が……!
「小澤良幸、今井真希子、水城拓也、児玉幹人、尾上ひとみ、塩澤宗治、八代平!」
頭痛に耐える阿蘇は、覚えている限りの手足教団員の名前を叫んだ。
「岸田泰子、小田切奈緒美、北林修平、橘美音……!」
蕩け嘆く声が少しずつ収まっていく。……自分に藤田と同じことができるかわからないが、今はこうするしか無い。阿蘇は藤田の首根っこを掴んで高く掲げた。
「思い出せ! これがお前らの信仰する本物の“お継ぎ様”の姿だ!」
反応したのは、僅かに数名。数秒気を引けたものの、大多数は何事も無かったかのように自らをゴミ神様に捧げる行為へ戻ろうとしている。やはり俺じゃ無理か、と阿蘇が歯を食いしばった時だった。
「う……」
藤田が、身じろぎをした。
「藤田……!?」
「あ、阿蘇……」
「詳しく説明している暇はねぇ! 悪いが今すぐこいつらを……!」
しかし最後まで言い切れなかった。なぜなら藤田は真っ青な顔で阿蘇を振り返ったかと思うと――
「……はは、ほんものだわ」
そう一言、呟き。
盛大に嘔吐したのである。
「ええええええええええっ!?」
「うげぇ……げほっ、おええっ……!」
「ちょ、なんで人の顔見て吐くんだよ!? 何があったんだ!」
「あー……拒絶反応? それより阿蘇……」
「んだよ!」
「お前の顔触ってもいい?」
「いいわけねぇだろ! 今のお前の衛生状態、この部屋といい勝負してんぞ!」
吐くだけ吐いてスッキリした顔の藤田だが、阿蘇と信者は大いに困惑していた。彼が教団の元後継者という理由だけではない。人間というものは、屈強な青年に掲げられたイケメンが嘔吐しただけで、それなりに呆気に取られてしまうものなのだ。
そしてこの一瞬が、ある者にある事を気づかせた。
「あらアンタ、何持ってんの?」
銀色の楕円体を抱えてこそこそと移動していた男の前に、絶世の美女が立ちはだかる。柊のケロリとした姿に、男はギョッと目を見開いた。
「お前なんで……!? そうか、コイツに認知されていなかったから……!」
「なぁにゴチャゴチャ言ってんのよ。っていうかその緑の上着、アンタボクに呪文を唱えてた人ね?」
「そこをどけ、女! 痛い目に遭いてぇのか!」
「!」
殴りかかる男だが、素人の拳に柊が遅れを取るはずもない。ヒラリと身をかわすと、竹刀で男の足を強打した。
「がっ……!」
大きくバランスを崩した男の手から、銀色の塊が滑り落ちる。慌ててキャッチしようとした柊だが間に合わない。よりにもよって思いきり蹴っ飛ばしてしまった。
蹴っ飛ばされた銀色の楕円体はシャンデリアに突き刺さった。ガラスの破片と共に落下したそれはたまたま剥き出しの大理石で大きく跳ね、結構な勢いを保ったまま窓ガラスをぶち破る。
そして道路に躍り出た楕円体は、4tトラックに跳ね飛ばされてコンクリートの壁にめり込んだ。
「……」
「……」
誰も、何も言わなかった。ただ洗脳されていたはずの信者が、ぽつりぽつりと正気に戻り始めていたぐらいで。
「あ、やべっ」
「おわっ」
なので阿蘇は自分の上着を脱いで藤田の顔を隠したのである。これ以上無駄に事態が混沌と化することは避けたかったのだ。
それから急いで柊の元に行くと、完全に毒気を抜かれた様子の緑の上着の男を拘束した。ここでようやく、自分が今から呼ぶ警察の応援にどう説明すべきなのか考えねばならないことを阿蘇は思い出し、肩を落としたのだった。





