7 混乱
信者達の時間はしばし止まったようだった。そしてその数秒を逃す三人では無い。
「どけ!」
阿蘇は纏わりついていた者達を蹴り飛ばし、拘束から逃れた。続いて動いたのは藤田と柊である。
「オレは筋肉ポリスを助けに行く! 美女ちゃんは逃げ道を守って!」
「わかったわ! がんばんなさい、紙男!」
なんだそのコードネームは、と阿蘇は思ったが彼らの実力は間違いない。柊はドア前のポジションを奪おうとする信者たちをぶん回す竹刀で追い払い、藤田はナイフを駆使して阿蘇の元に進んでいた。
だが、一人の男が真正面から藤田に突っ込んできた。
「ッ!」
ズブリ、とナイフが深く男の腹に埋もれる。一瞬青ざめた阿蘇だったが、藤田は怪しむように目を細めて呟いた。
「……なんで怖がらねぇの?」
藤田が身を引くと、男は膝をついて倒れた。しかし一向に血は床に広がらない。当然だ、藤田の手にしていたものはダミーナイフだったのである。
「ちょっとぐらいビビれよ! ナイフ持ってるっつったらさぁ!」
次々に藤田に向かう信者たちだが、やはり男同様刃物を恐れる様子は無い。よしんば偽物であるとバレていたからだとしても、全員が全員寸分も怯まないのは妙だ。まるで実の親でも殺されたかのような必死さである。
――原因があるとしたら、やはりアレだろう。阿蘇は転がったままの銀色の楕円体に視線をやった。
「筋肉ポリス、今は引こう! コイツら普通じゃねぇ!」
「ああ。でもその前に……!」
藤田の声を振り切り、諸悪の根源へと身を翻す。あの物体を何とかしない限り状況は変わらない。せめて回収するか、いっそこの場で破壊しなければ……!
が、一足遅かった。
「ゴミ神様、ゴミ神様……」
池賀である。彼は虚ろな目で銀色の楕円体を手にし、周りには同じくゴミを纏った男数名が佇んでいた。
「ゴミ神様……肉を……私の肉を捧げます……」
池賀の隣にいる男の手の中で鈍い光を放つのは、ものものしい肉切り包丁。ダミーなどではない、赤黒い血肉がこびりついた包丁が池賀のこめかみに当てられていた。
「やめろ!!」
阿蘇と藤田が叫ぶも、使い込まれた刃が池賀の皮膚をプツリと破る。次の瞬間、飛んできた何かがその包丁を弾いた。
「っぶねー……!」
藤田がダミーナイフを投擲したのである。落ちた肉切り包丁はすかさず阿蘇が回収し、全力で頭上に投げ天井に突き刺した。
「やだ、なんて野蛮な包丁の無力化」
遠くで聞こえた柊のツッコミは無視した。
「ゴ、ゴミ神様……」
池賀はというと、未練がましく藤田のダミーナイフを頭部に差し込もうとしている。しかしブレード部分に刃が付いていないのでは、どうすることもできない。
「ゴミ神様……!」
「おのれ! 貴様受けた恩を何だと思っている!」
「ゴミ神様がお怒りになる……! 貴様の手足を清浄なる炎で焼かれるぞ!」
「ッ! 逃げろ、紙男!」
押し寄せる怒声に、阿蘇の声はかき消された。少したじろいだ藤田の隙を見た信者の一人が、背後から取り押さえる。
「ちょっ……離せ!」
「体格は似ている。性別もゴミ神様と同じだ。ちょうどいい」
「何歳だ? 何歳だ?」
「この紙袋は何? ゴミ神様になるのだったら顔を見せないと」
「やめっ――!」
信者の女の手が、藤田のかぶる紙袋を鷲掴む。藤田は拒否する暇も与えられず、急ごしらえの仮面をはぎ取られた。
「……!」
だが、彼の顔が晒されたその時。信者の数名が目に見えて狼狽し始めたのである。醜悪な空気の中にあってさえ濁らない美形のせいではない。藤田直和は彼らの脳深くに刻み込まれた存在だったのだ。
「なぜ……ここにゴミ神様のお継ぎ様が……?」
生ける炎の手足教団の元信者たちである。皆一様に頭を抱え、あふれる情報を一滴もこぼすまいとしている。
それは阿蘇も同じだった。藤田は生ける炎の手足教団の元後継者であり、決してゴミ神様に関わりは無いはずである。……どうなっているんだ?
「……」
一方で、藤田は状況を理解し始めているようだった。
「――何をしているのです。今すぐ手をお放しなさい」
打って変わって、ゆっくりとした厳かな声が響く。藤田を押さえていた男が、ビクッと体を跳ねさせて離れた。
「そう、それでよろしい。そのまま下がりなさい。……不浄の気を感じて立ち寄ってみれば、なんという有様。肉は腐り、血は淀み――ここは真なる清浄から最も遠い場所です」
ゆったりとした所作で藤田は立ち上がる。そのまま池賀の前に進むと、唖然とする彼の肩を両手で包んだ。
「池賀作郎。あなたの神の名を口にしてごらんなさい」
「あ……あ」
「そう、あなたは正しい。神の御名は軽々しく口にしてよいものではないのです。当然、ゴミ神様などという不浄なる異名を持ちえるはずもない」
「……」
「教団の名を唱えるのです。何度でも何度でも唱えるのです。あなたは我々神たる炎の誠実なる手足――いずれもたらされる理想郷の姿は、教祖によって浄化されたあなたの血にも流れています。指の先まで行き届いているのですから」
慈愛に満ちた眼差しである。しかし阿蘇は、そこに藤田の最も嫌悪する何かを見た気がした。それでも彼はその何かを利用し、混乱と人々を収めようとしている。
「ッ!」
そんな藤田の死角から、虚ろな目をした女が椅子を振り上げた。阿蘇は咄嗟に彼女を蹴り飛ばしたが、粗野な現実の音に信者たちは我を取り戻してしまった。
「ゴミ神様……ああ、おれは一体……!?」
池賀の目のふちからぼたぼたと落ちた液体が、汚らしい床に落ちる。
「お、おれはゴミ神様にならねばならない……ゴミ神様、に、ああ、指の先までゴミが流れて……!」
「しっかりしなさい! 池賀作郎!」
「お継ぎ様……お継ぎ様! ねぇ、あなたはゴミ神様のお継ぎ様ですよね!?」
号泣する池賀は、妄信と確信の間で揺らぎながら自身の落とし所を探っている。――混ざっているのだ。生ける炎の手足教団への信仰心と、ゴミ神様が。
操るのは対象の信仰か、精神に根を張る何かか。いずれにせよ、もしここで藤田が狙われたとしたら……!
「藤田、もういい! 逃げるぞ!」
阿蘇は幼馴染の腕を掴もうとした。ところが分断される。信者達がどさどさと折り重なるように倒れ、彼の前に壁を作ったのだ。
「お継ぎ様……これを」
人の壁の向こうから、池賀の声がする。
「これが……我らの信仰します、神の脳です。ですがこのままではモノを言うことすら叶いません。ゆえに信者は……我らは、彼を受肉させねばなりません。容れ物、容れ物が必要なのです。我らも教祖様に連なる血が流れた者を用意したでしょう。ねえ……お継ぎ様」
池賀の様子がまた徐々におかしくなっている。信者たちを押しのけ叫ぼうとした阿蘇だったが、刹那自らを襲った凄まじい頭痛に思わず言葉を飲んだ。
「ゴミ神様、ゴミ神様、候補をお連れしました」
また何かが脳を脅かそうとしている。阿蘇だけではない、周りの者もしゃがみこむほどの強い力。今度こそゴミ神様は体を得ようとしているのだ。
「藤田……!」
思考と理性をぐちゃぐちゃにかき混ぜられながら、阿蘇はついに声を張り上げた。
「わかってんな! 絶対明け渡すんじゃねぇぞ!」
人と人の隙間から、静かにうつむく藤田の姿が見えた。





