6 おれの
※お食事中の方はご注意ください。
振りほどこうと思えばできただろう。しかし阿蘇は、あえて抵抗せず池賀に連れていかれた。室内は埃が溜まっており、いくつもの白い足跡がついている。勝手に間借りしておきながら掃除すらしないとは怠惰だな、と妙な笑いがこみあげてきた。
つまりまだ余裕があったのだろう。だがそれもリビングに入るまでだった。
「……!」
リビングは、広かった。部屋と部屋を仕切る壁が見る影も無く壊されており、数十人の男女がぎゅうぎゅうにひしめき合っている。腐ったゴミと、人の汗と、恐らくは汚物。これらのこもる臭いはなぜかどこか甘く、阿蘇は胃から突き上げる吐き気を堪えるのに必死だった。
つーか、よくもまあこんなに隠れてたな。
「ゴミ神様、ああ、ゴミ神様」
池賀が歌うように大声を上げる。
「新しい候補を連れてまいりました。今そちらに参ります」
その言葉に人々が動き、阿蘇達の前に道が作られた。周囲を飛ぶコバエを手で払い、べたべたとしたシミで潰れた毛の長いカーペットを踏み進めながら阿蘇は周りを盗み見た。かなりの人数がいながら、池賀同様ゴミを纏っているのはたった数名のみである。いずれも彼と同年代で、似たような体格の男だ。
「ところで警官さん。あなたのご年齢は?」
「二十七」
「ううん、惜しいですね。せめてもう少し生まれるのが遅ければ、いい候補になれたかもしれないのに」
人の渦の中心、丸くくり抜かれた空間。そこに一つの青いポリバケツが置かれていた。よくある丸形で九十リットルの型である。ぴっちりと蓋が閉められているにも関わらず、臭いはここが一番強い。飛ぶ、虫の数も。
「ゴミ神様、ゴミ神様」
呼びかける池賀は蓋に手をやる。それを見ていた阿蘇だったが、突如複数人に後頭部を掴まれポリバケツの前に固定された。鼻先で蓋が開く。ぶわっと無数の虫が顔にぶつかり、強烈な悪臭とこれでもかとぐちゃぐちゃに詰めこまれた大小の生ゴミが視界を埋め尽くした。
――これなら、まだその辺のドブ川に顔を突っ込んだほうがマシだ。阿蘇は歯を食いしばって、息を最小限にしていた。
「ゴミ神様、ゴミ神様、ご紹介します」
うっとりとした声が頭上から落ちてくる。
「候補をお連れしました。二十七歳警察官の男。身長は少々高過ぎますが、健康体だと思われます。……いかがでしょうか、ゴミ神様」
部屋中の視線が自分に集まっているのを感じる。腐った肉の塊が脈動するのは、中に巣食う何匹もの幼虫が蠢いているせいだ。その内の一匹が、阿蘇の存在に気づいた気がした。
……おれの
声がする。ウジ虫が喋っているのか、はたまた別の何かが直接阿蘇の頭を揺さぶっているのか。
……おれの おれの ……
脳に映像が瞬く。……写真だろうか? 自分と同じ年ぐらいの白衣の男がこちらを向いていた。彼を囲むのは同じ服装の人々。どこか見覚えのある箱のような建物を背に、皆笑って――。
突然、男の顔が苦悶に歪んだ。周りの人々は微動だにしないにも関わらず、男は頭を抱えて崩れ落ちる。
「おれの おれの おれの!」
阿蘇は何もできない。関与できないまま、仮想的な空間で男を見下ろしている。男の皮膚はみるみるうちに腐り始め、不潔な爪は長く伸び硬化していく。開き過ぎて裂けた口の中には、人間ではありえない大きさの牙が見えた。
「おれの おれの おれの……!」
だがそこまでだった。男は自らのぶよぶよとした顔の皮膚を両手を掴むと、力の限り引きちぎったのである。
赤とピンクの肉の下に、骨が見えた。真っ白で、鮮やかで、ぐるりとした継ぎ目のある骨が。
「から だ」
――僅かに白いものが残った男の眼窩が、阿蘇を捉えた。
脳に激痛が走る。何かおぞましいものが自分に侵入してこようとしていた。――全てを捧げねばならない。思考も、身も、これまでの生をも。あらゆる己を捧げ、“俺はゴミ神様にならねばならない”。
だが阿蘇の強固な理性が反射的に抵抗した。咆哮し、ポリバケツを蹴飛ばす。かなりの重さのそれは横倒しに跳ねると、ゴミを撒き散らしながら転がった。
「……“俺の”だよ」
悲鳴を上げて錯乱する人々の中で、左腕を押さえた阿蘇は酷い頭痛と憤怒に目を鋭くして言った。
「体だろうが中身だろうが! テメェにやる分は一つもねぇ! 全部俺のモンだっつってんだ!」
阿蘇を捕らえようと怒り狂った信者たちが迫る。阿蘇は一人に狙いを定めると、迷い無く全身を使って突進した。彼の体格と膂力をもってすれば、人間一人を弾き飛ばすのは容易い。よろめく信者の脇をすり抜け、阿蘇は人の輪から出ようとした。
だが敵の動きも早かった。統率された動きで彼の行く手を塞ぐと、すかさず別の信者が飛びかかってきたのである。
「ああもう!」
寸手の所でかわし、阿蘇は吐き捨てる。
「本気出すぞ、クソが!」
皆わけのわからない言葉を叫んでいた。「よくも」「この不浄の者め」「貧乏人が」「ゴミ神様を愚弄して」「せっかくの機会を」「恩知らず」「浄化が必要だ」――。絶叫とがむしゃらな暴力を一身に向けられる阿蘇は、ふとそれらに違和感を抱いた。
(俺達の出した仮定だと、コイツらは一つの意識に操られているはずだ。なのになんで、こうも襲う理由がバラバラなんだ?)
しかし、そんな疑問をますます複雑化させるものを彼は見てしまう。転がるポリバケツと、そこからこぼれた大量のゴミ。それに混ざった“あるモノ”への衝撃に、彼は束の間動きを止めた。
―――人間の脳ほどの大きさの、銀色の楕円体。以前ある事件で回収された遺体の頭の中から発見された物体と同じモノが、腐った肉に紛れて転がっていたのである。
「どうして……!」
尋ねれど返答は無い。代わりに集団は、阿蘇を取り込まんと襲い掛かってきた。腕を取られる。体勢を低くした者に足を掴まれる。前から来た女は腰に抱き着いてきた。
万事休すである。いよいよこうなれば相手に怪我をさせても目的を優先すべきかと、そう覚悟を決めかけた時だった。
「やだーっ! やっぱりすんごく臭いじゃない!」
ハスキーボイスと共に聞こえたのは、知らない男の短い悲鳴。
「んもーっ! だから言ったでしょ、危ないって! ボクの言うこと聞かないからこうなるのよ!」
薄暗い室内にいても輝かんばかりの絶世の美女が、竹刀を携えて立っている。その隣には……。
「こんにちは! どこからどう見ても怪しくない一般人です!」
……恐らく藤田直和だろうと思われる茶色い紙袋をかぶった男が、ナイフを持って並んでいた。





