11 楽しかった
「すっかり暗くなってしまったな」
あの後、ヒロさんの手作りご飯をご馳走になりお腹も心も満ち足りた僕らは、タクシーにて帰宅路を急いでいた。僕としては曽根崎さんがマンションに着くのを見届けて帰ろうとしたのだけど、「帰るまでが遠足だから」「曽根崎ファーストだから」と謎の主張されて僕が先に帰ることになった。意味が分からん。曽根崎ファーストならむしろアンタが先に帰れよ。
「しかし君も稀有な人間だよな」
窓の外を流れるネオンを肘をついて眺める曽根崎さんが、言う。
「よくもまあ、他人の旅行プランを考えるためにあれほどの時間を費やせるものだ。旅館の手配一つ取っても面倒なもんだろうに」
「あんなの予約サイトでポチーですよ。簡単簡単」
「それだけじゃない。時間配分や下調べに至るまで君は手を抜かなかった。移動するたびに『ここはナニソレが美味しい』『ここはこういう謂れがある』などと話してたしな」
「あんなのインターネットで検索したらスパーンですよ。簡単簡単」
「ほら、メモにもびっしり書き込まれてる」
「うわっ、返せ!」
いつのまにか旅行一口メモをスられていて、慌てて奪い返した。隠すつもりはないけど、あえて見られると恥ずかしい。今度は取られないよう、注意深く反対側のポケットに押し込んだ。
でもまだ奴はお喋りをしたい気分らしい。僕のほうを見て、少し首を傾げた。
「……曽根崎癒しまくりツアー」
「曽根崎慎司癒しまくりスペシャル豪華ツアーです」
「一緒だろ」
「一緒じゃないですよ。スペシャルで豪華だったじゃないですか」
「そうか?」
「うわー、金持ちはこれだから。僕は別世界みたいな旅行でしたよ? しばらく金銭感覚が麻痺しそうです」
「もやし一袋六十八円」
「それどこのスーパーの話ですか? 豆もやしかどうかでも値段違ってくるんで、その辺も僕に任せてもらえれば」
「全然大丈夫じゃないか」
「大丈夫だった……」
「問題無く現実に復帰できそうで良かったな。中には旅先での解放感や楽しさが忘れられず、旅行ロスになる人もいるそうだから」
「怪しいオッサンが視界にいるって点では、バイトも旅行も同じなので」
「んだと? 妙に若返ってオッサン脱却したろか」
「どうやって?」
「今晩青汁を飲む」
「薬事法に引っ掛かりますよ、そんな即効性のある青汁」
でも、そうだ。もうすぐ旅行が終わってしまうのだ。曽根崎さんの消耗された精神を、少しでも癒すための旅行。なのにまだ何かが胸につっかえている僕は、全身に広がる疲労に任せて冷たい窓に額を当てていた。
やれることはやった――と思う。曽根崎さんが楽しめるように、疲れが取れるように。……いや、そうかな? 本当に? そういえばマッサージは頼み損ねたし、やったことといえば曽根崎さんをあちこち引っ張り回したぐらいである。あれ? 癒しって何?
「……」
段々と顔から血の気が引いていく。――ヤバい。実は僕、全然曽根崎さんを癒せてなかったんじゃないだろうか?
「お、君のアパートが見えてきた。そろそろ降りる準備をしたほうがいいな」
ヤバいヤバいヤバい、曽根崎さんを癒せてないんなら何のための休暇か分かんねぇじゃん。ただひたすら僕が美味しいもの食べて楽しく遊んだだけになる。ヤバい。どうしよう。でももう時間無い。
「すいません、そこの角に停めてください。すぐ降りますんで」
い、今からでも曽根崎さんにマッサージしたほうがいいのかな? 肩とか見るからに凝ってそうだし。でもいきなり揉み始めたら、曽根崎さんもタクシーの運転手さんもびっくりするよな。けど今から挽回とか、他に案なんて……!
「景清君」
「はい!」
「着いたぞ」
言われて顔を上げると、見覚えのある通りが目に入った。運転手さんは荷台を開けて、僕のスーツケースを取り出してくれている。
「あ……」
「ほら、何ボサッとしてんだ。早く降りろ。車通りは少ないが、長く停めておけるもんでもないんだから」
「は、はい」
「部屋に入るまでは気を抜くなよ。ちゃんと鍵かけたか確認してからシャワー浴び、眠るんだ」
「アンタは僕の保護者か何かですか。大丈夫ですよ、心配しなくても」
「……」
「な、なんですか」
言ってから、「なんですかとはおかしいな」と思った。言うべきことがあるのは僕のほうなのである。言うべき、というよりは、尋ねるべきことだけど。
「あの、曽根崎さん……」
でも、答えを知るのはまるでパンドラの箱を開けるようだったのだ。聞かないほうがいいんじゃないか。気づかないふりをしてるほうがいいんじゃないか。
結局僕が空回りしただけで、何の意味も無かったことが証明されてしまうんじゃないか、って。
「なあ」
だけどそんな僕を先回りするかのように、曽根崎さんは口を開いたのである。
「この数日、ご苦労だったな」
「え?」
「や、だから、旅行」
「あ、はい」
一瞬、何を労われたのか分からなかった。目の前にいる曽根崎さんは、難しい顔をしてもじゃもじゃ頭をガリガリと掻いている。
「違ったか? じゃあ、これだ。君の考えたプランは、良い出来だったと思う」
「そ、そうですか? 光栄です」
「うん。一般的に見ても上等なものだっただろう」
「ありがとうございます」
「うん」
「はい」
「うん」
「……」
「……」
?
何がしたいんだ、この人。
「うーん」
曽根崎さんは、いよいよ不審者面をしかめさせていた。……あ、もしかして困ってんのか? コレ。
「お客さん、荷物はこれだけですか?」
「あ、はい。ありがとうございます」
「いいえ。ご挨拶が済んだのなら、もう出ますけど」
運転手さんにそう言われたが、ご挨拶も何も明日だって会うのだ。そんな大層な儀式が必要なわけではない。
大人しく座席から降りる。運転手さんが運転席に戻っていく。じきにドアだって閉まるだろう。
「景清君」
だけど夜には眩しすぎる車内灯の中、曽根崎さんが身を乗り出した。かろうじて聞き取れるぐらいの早口で、彼は閉まるドアから言葉を捩じ込んだのである。
「ありがとう、君との旅行は楽しかった」
それを最後に、ドアが僕らを遮った。タクシーは軽いエンジン音と共に、発車する。間抜けに口を半開きにした僕を残して、車はすぐに角を曲がって見えなくなった。
――楽しかった。確かに、曽根崎さんはそう言った。言ってくれた。
「……」
両膝に手を置き、長く息を吐く。体を持ち上げた頃には、さっきまであった胸のつかえは取れていた。
重たいスーツケースを引きずり、部屋の前まで行く。鍵を鞄から探し出して、ドアを開けた。物の少ない久しぶりの我が部屋は、何も言わずに僕を迎えてくれた。
スーツケースを引き込んで、鍵を閉め、靴を脱ぎ捨てる。お風呂……は明日でいいや。でも、あちこち出かけた服でベッドに倒れ込むのには抵抗がある。
狭い床に隙間を見つけて横になると、すぐに抗いがたい眠気が襲ってきた。もう何も考えたくない僕は、とりあえず一旦目を閉じてみる。
明日からは、またいつもの日々が始まる。大学に行って、勉強して、不確かな自分の現状に不安を抱いたりして。それから多額の借金と不摂生な雇用主に頭を悩ませながら、自転車をこいであの事務所へと向かうのだ。
(……良かった)
でも、今だけは最後に聞いた曽根崎さんの言葉だけを思い出していた。肩までお湯に浸かったような温かな安堵が、胸を満たしているのを感じながら。
(頑張って、良かった)
そして僕はもう一度深呼吸をすると、深い眠りに落ちていったのである。
特別編・僕とあなたの小旅行 完





