19 忘れない
頭に浮かんだのは、滝の前で僕らに失礼な発言をしたあの男の人である。今ならはっきりと思い出せる。だって現実世界においては、ほんの一時間前の出来事なのだから。
「天使は人や虫をあるべき姿へと変え、現実の姿すら変えてしまう」
震える指でハンカチを拾う僕の後ろで、曽根崎さんは言った。
「私は夢の中で、この男が大声で笑うのを見た。天使が現れた直後、彼は消えたと思っていたが……そうじゃない。視界から外れていただけで、まだそこにいたんだ」
「……なら、このハンカチは」
「男の成れの果てでまず間違いないだろう」
明言した曽根崎さんに、僕は首の後ろがスッと冷えるのを感じた。――信じられない。いや、信じなくてもいいのだ。夢で見たことが正しいなんて、誰にも証明できないのだから。
でも、一度そう思い込んでしまうといけなかった。手のひらに収まるほどの薄っぺらいそれに、どうしてもあの男の人が重なった。
「因果応報だよ」曽根崎さんは淡々と続ける。
「男は祠を壊した。その結果夢にいざなわれ、天使によって姿を変えさせられた。だから――」
声に、ため息が混じった。
「君が気に病む必要は無い」
「……」
曽根崎さんにしては、珍しい言葉選びだった。普段の彼なら、「布に同情するだけ時間の無駄だ」とか言って容赦無く切り捨てそうなのに。
……あれか。気を遣われるほど、今の自分はひどい顔をしているのか。慰められたことになんとなく救われた気持ちになった僕は、できるだけ優しくハンカチを撫でてやった。
「とはいえ、ここから先は怪異の掃除人の領分になる」
しかしいつの間にか背後に立っていた曽根崎さんに、サッとハンカチを奪い取られる。振り返ると、冷たい目をした彼と視線がかち合った。
「得体の知れぬ出どころである以上、この布は女神像と同じく処分されねばならない。ただのハンカチだとは思うが、念のためだ」
「そっ……そんなのダメですよ! 元は人だったかもしれないのに!」
「人だったかもしれないのなら尚更、引導を渡してやるべきだろ。安心しろ。君の同情心ごと燃やしてやる」
曽根崎さんはライターを取り出し、何でもない顔でハンカチを近づけている。小さな炎の切っ先が、僅かに風に揺れて――。
「や、やっぱなしで!!」
「あ?」
寸前で、僕はハンカチに飛びつき奪い返した。おっそろしく怖い目の曽根崎さんから数歩距離を取り、急いでハンカチを背中に隠す。
「だ、大丈夫ですって! だってほら、おじいさんの手記にはあるべき姿に変わるだけって書いてましたし! その理屈だとハンカチさんだってハンカチとして生きたいってことになりませんか!? セカンドライフってやつですよ!」
「……はああ?」
「僕がちゃんと使いますから! ほつれてきても繕いますし、ボロボロになってもパッチワークの材料にしてまだまだ使いますから!」
「ペット飼うんじゃないんだよ。つーか君、雑巾一枚縫うのに指三本犠牲にするぐらい不器用だろ」
「シャーッ!」
「威嚇するんじゃない」
曽根崎さんはまことげんなりとしていた。僕はというと、ハンカチを庇って訴訟も辞さない構えだった。
……いや、僕も素っ頓狂なことを言ってる自覚はあるよ? ハンカチになってしまった以上本人に意向を問うことはできないし、かといってもう一回僕らが夢の世界に行くわけにもいかないし。
けれど、これ以上曽根崎さんに何かの命を奪わせたくなかったのだ。僕がループの記憶を無くしていたせいで、彼は何度も僕を殺し、精神を消耗させた。人の姿をしていないハンカチの処理なら、まだ「なんてことない」のかもしれないけど、僅かでも何かが蓄積されるなら僕は避けたかった。
「ゆ、譲りませんよ」
「……」
「大事に、使いますから」
「……」
ビクビクしながら鋭い目を睨み返す。そうしてしばらく膠着状態が続いた後、曽根崎さんはがっくりと肩を落とした。
「――わかった、わかったよ。私の負けだ」
「え? も、燃やさないでくれるんですか?」
「ああ。君が言い出したら聞かないのは知ってるし」
「ありがとうございます! じゃあ……!」
「ただし」
曽根崎さんは、びしりと人差し指を立てた。
「そのハンカチを君が使うのは許さない。事情を知らない人間に渡すこと。いいな?」
「え、なんでですか!?」
「なんか嫌だからだ」
「なんだその理由!」
「それに君だって気を遣うだろ? 先程の言を借りるなら、ハンカチとてハンカチらしく使ってほしいはずだ。ならば君は適切じゃない。どうしても、元人間であることがチラついた使い方をするだろうからな」
「う……」
「よって、ハンカチは然るべき人間に譲渡すること。この条件が飲めないのなら即刻焼却処分だ。わかったな?」
ためらったけど、考えれば考えるほどごもっともである。僕は渋々頷いた。それを確認しておいて、「よし」と曽根崎さんは村の出入り口に目を向ける。
「そうと決まれば早く旅館に戻ろう。色々手配することもあるしな」
「はい、わかりました。はああ……やっぱりただの旅行にはなりませんでしたね」
「何、これから楽しめばいいだろ。手早く済ませたら、改めて観光するとしよう」
「そうですね。……」
背の高い曽根崎さんの横顔に、僕はある違和感を覚えた。じっと見ていると、彼も視線に気づいたのか怪訝そうに目を細める。
「どうした。まだ何かあるか?」
「いえ。そういやアンタ、いつもと違って僕の記憶を消したがらないなって」
「ああ……うん。まあ、今回だけだよ。夢だってことで記憶も曖昧になりつつあるし、記憶の消去は必要無いと判断している」
「なるほど」
「……それに」
曽根崎さんは、わざとらしくニヤリと笑みを見せた。
「君にはもう、一生分ぐらい忘れられたしな」
「ああああー! すいません!!」
「これ以上忘れられるのは流石にこたえる。よって今回は何もしない」
「うううう、本当にごめんなさい……!」
「ふふ」
全力で何度も頭を下げた。いくら怪異のせいとはいえ、まるっと忘れていた僕に非はある。それにその気になったら案外覚えていられた事実がある以上、何も言い返せない。謝るしかできない。
「ごめんなさい、曽根崎さん……! もう絶対忘れませんから……!」
「ん、頼むよ」
許されたものの、申し訳なさで胸をいっぱいにしながら下山する。だから僕が曽根崎さんにしては酷くレアな発言を聞いてしまったと気づくのも、もう少し先なのだった。





