18 今度こそ、本当に
その手記の最後の一文を読んだ直後、またもや意識が混濁し始めた。周りの景色が歪み、腹の底がひっくり返るような気持ち悪さが襲う。
目の前にあるカカシの顔は、あのおじいさんの顔になっていた。真顔、狂気に満ちた笑顔、カカシの顔。全部が混ざって、僕を脅かさんと手を伸ばしている。
「ッ……!」
手記を庇い、曽根崎さんの元に帰ろうと身を翻した。が、彼も焦った顔をしてこちらに走ってきている。その右手には、見覚えのある紙束。
「な、なんでアンタもそれを持ってるんですか!?」
「えっ、君も!?」
「っていうか、さっきまで旅館に電話してたんじゃ……!」
「それは君のほう――ああそうか、クソッ!」
悪態をつく曽根崎さんの反応に嫌でも理解した。どうやら僕らはまだ夢の中にいるらしい。
でもなんで? あの小箱を開けたのなら、外に出られるはずじゃ……!
「いい加減にしろよ、バケモノ!」曽根崎さんは吐き捨てる。
「しつこいにもほどがある!」
「ですが、あの時みたいに景色が歪んでいます! もしかしたら、今度こそ本当に出られるかも……わっ!」
ぐんと体がのけぞった。振り返る。僕に追いついたカカシが、棒っきれの腕を伸ばしてパーカーのフードを掴んでいた。
「ぐっ……!」
振り解こうとしたけれど、ふと目の端に違和感を覚えて動きを止める。奇妙に思ったのはカカシの表情。おじいさんの顔をしたそれは、今やはっきりと泣き出しそうに歪んでいた。
「……なんで?」
人間的な表情に動揺していると、もう一度フードを引っ張られる。彼の反対側の手は、明確にある一箇所を指していた。ボロボロに壊された、小さな祠のような場所を。
「そこに……何かがあるんですか?」
「……」
僕の問いに、おじいさんは何も言わない。と思ったら、急に顔のパーツが中心に集まった。粉々に飛び散ったあとに残るは、真っ黒な三つの穴。フードを強く引っ張られて首が絞まる。三つの穴がボオオオと音を立てて笑い始めた。
「景清君!」
瞬間、曽根崎さんの長い脚が空を裂いた。カカシの腕がへし折れ、気道が解放される。咳き込む僕だったけど、それは二の次とばかりに手首を掴まれた。
「逃げろ! 次に捕まればまた夢に連れ戻されるぞ!」
「げほっ……な、なんで分かるんですか!?」
「勘だ!」
「勘かよ!」
でも、案外馬鹿にはできない。この人はそれだけの場数を踏んでいるからだ。もつれそうになる足を必死で動かして逃げる。曽根崎さんの背後に手が迫っているのを見て、カカシの顔に手記を投げつけた。
逃げる先に見える景色はいよいよ捻じ曲がり、内臓は手でぐちゃぐちゃにかき回されているようだ。そうして、辺りが真っ白な光に包まれたかと思うと――。
「ぶわっ!!?」
「ぐわっ!!?」
僕らの体は、固い地面の上に転がっていた。混乱しながらも、呼吸とまばたきを繰り返す。目を焼く太陽光と、肺を満たす木々の匂い。そして、点々と建つ壊れた家屋。見るのは二度目の光景――荒れ果てた集落が、僕たちを取り囲んでいた。
「ぶはっ! はぁっ……へぁっ!?」
「ぐう……うう……」
曖昧だった夢と現実の境界が次第にはっきりとし、触れるもの全てが確かだと感じる。――今度こそ、僕らは帰ってきたのだ。
「よし……よし。いけた。出られた。多分」
同じく曽根崎さんも確信しているみたいだった。砂を掴みながら、彼は体をくの字にして大きく息をした。
「どうだ、景清君……。その、気分、とかは」
「あ、だ、大丈夫です。曽根崎さんは?」
「吐きそうだ」
「うわ」
「うわって言うな。……問題無い。耐えられる範囲だから」
「わ、わかりました。鳩尾を狙えばいいですか?」
「一回吐かせようとするな。酔っ払いじゃねぇんだよ」
そうやってしばらくうずくまっていた曽根崎さんだったが、やがてマシになってきたのだろう。深呼吸をしながら、ゆっくりと身を起こした。
「……私達は、何者かによって作られた夢を見ていたのだろう」
彼はまだ青ざめた顔で地面を見つめて、そう呟いた。
「例の手記と現状を鑑みる限り、間違いない。私達はそこに引きずり込まれ、同じ時間をループしていた」
「……はい。事務所で鞄の中身を確認している時を起点に――」
「ああ、あまり思い出そうとするなよ。たとえ夢とはいえ、何度もなぞれば定着してしまう」
「?」
「……忘れたまんまにしとけってことだ」
「なるほど」
最初からそう言えばいいのに。回りくどいんだから。
体が重たい。脳に刻み込まれていたはずの恐ろしいイメージが、煙のように消えていくのを感じる。……言葉のとおり、あれは夢でしかなかったのだ。現実に戻ってきてしまえばこちらのもの。このまま僕は、いつかあの夢を見たことすら忘れてしまうのかもしれない。
とはいえ、まだ気になっていることがあった。忘れる前に、僕は曽根崎さんに向き直る。
「あの、一つ聞いていいですか?」
「……一つだけだぞ。なんだ?」
「どうして曽根崎さんは、手記を読む前に小箱に罠が仕掛けられてるって気づいたんですか?」
「あー、それか」
地べたにあぐらをかいた曽根崎さんは、顎に手をあてて小さく笑った。
「簡単な話だよ。『笑った人間は天使に消される事実』と『悪意ある者に〝小箱を開けろ〟と迫られている状況』。これら二つを単純に繋げた結果、『小箱は罠で、開けると笑い声が飛び出し天使が現れる』という推論が導き出された」
「で、それを元にした解決策が、おじいさんに小箱を投げつけることだったと」
「あの場で取れる行動は限られていたからな。小箱を開けつつ私達が天使に見つからない方法となれば、もはや爺さんを身代わりにするしかない」
「エグい作戦ですね……」
「だがまんまと成功したろ?」
「それはそうなんですけど」
やめたほうがいいとわかっていながら、僕は最後に見たおじいさんの顔を思い出す。……脅威でしかない存在だったはずだ。なのに僕の頭に浮かんだその人は、助けを求めるかのような弱々しい顔をしていた。
辺りを見る。おじいさんが示した祠は……あれだろうか。四つあるうちの西に位置するものだ。
「曽根崎さん」
声をかけて、簡潔に事情を伝える。曽根崎さんは一瞬嫌そうな顔をしたけど、黙って立ち上がった。
手記によれば、四つの祠は夢を封じ込めるために作られていた。けれど、今は無惨にも――
「壊されているな」
「……はい」
「しかも折れた柱の断面は新しい。つい最近起こったことなのだろう」
もはや祠としての体裁も失くした残骸に、僕の胸は不快な思いでいっぱいになっていた。自然に壊れたものじゃなく、誰かの悪意によってこうなったのだと。自ずとわかったからである。
だけど、曽根崎さんにとって重要なのは、そんな一般良識じゃない。何かを発見したらしい彼は、おもむろに真っ白な手袋をつけると、瓦礫の中に長い腕を突っ込んだ。
取り出されたのは、お腹から真っ二つになった青色の女神像。それを見た瞬間、僕はハッと息を呑んで数歩後ずさりした。
「その像……僕、見覚えがあります」
「だろうな」
いや、見覚えがあるなんてもんじゃない。ついさっき、僕は同じ姿の〝天使〟を夢で見たばかりなのだ。憂いを帯びた美貌と、一対の羽。するすると、機械的に血の海を滑るあの姿を……。
(……ダメだ。思い出さないようにしなきゃ)
頭を振って、目を逸らす。一つ呼吸を置いて、頭からイメージを追い出した。曽根崎さんはというと、手早く女神像をビニール袋で覆ってぎゅっと口を絞っている。相変わらずなんでも出てくるスーツだ。
「も、持って帰るんですか?」
「ああ。あの夢に関連している可能性が高い以上、野放しにはできないからな。ツクヨミ財団に事情を話し、調査してもらうつもりだ」
「驚きました。曽根崎さんがお金にならない人道的処理をしてるなんて」
「や、単純にムカつかないか? 散々私達を追いかけ回してくれたんだ。粉末にして粘土に練り込み、それを前衛アーティストを名乗るだけの下品な連中に寄贈してとんでもない姿に変えてもらおうと思う」
「相変わらず嫌がらせに関する発想が頭一つ抜けてますね……。でも、復讐っていうなら、その辺の石にぶつけて粉々にしたほうが手っ取り早くないですか?」
「……」
「なんか喋ってくださいよ。わかってねぇなぁって顔してないで」
どうやら、曽根崎さんには何か懸念事項があるらしい。彼はしばらく顎に手を当てて考えていたが、「それじゃ、ある仮説について話そうかと」と女神像を掲げた。
「もしも、この像に未知の物質が含まれていたとしよう」
「? はい」
「そしてそれが私達の脳に作用した結果、あの夢に導いていたとしたら?」
「未知の物質が……僕達を夢に?」
「そう」曽根崎さんは、大真面目に頷いた。
「手記によると、天使は生きているモノを夢に呼びたがっていた。だが、いくら求めていたとしても、生きているモノが夢に来なければ何もできないだろ? その夢に呼ぶための手段が、その未知の物質を吸引させることだった――と考えるのはどうだろう」
「どうだろうって、えっと、ちょっと飲み込めてないんですけど……。その、つまり僕らは、女神像の成分を取り込んだから夢に連れていかれたってことですか?」
「そのとおり」
「そんなまるで呪文みたいな……」
「言い得て妙だな。そもそも呪文自体、音を通して人の脳に働きかけるものだと私は解釈している。それと同様に、体内に取り込ませることで呪文と同様の効果が得られる物質が存在してもおかしくない」
「おかしくない……ですかねぇ?」
「更にこうも考えられる。当時の村人は、女神像を身近に置いていたことによって次から次へと夢に導かれていった。手記を書いた者は、祠を建てることでそのうちの一つに女神像を密封することにしたんだ。
だが、祠が破壊されたことで女神像も割られ解放された。当然辺りに粉末が飛び散ったはずだ。その粉末を、ここを訪れていた私達が運悪く吸引していたとしてもおかしくない」
「……そう考えると、一応筋は通りますね。でも、そうなると祠を壊した人がこの近くにいるはずですが」
「うむ、いる」
曽根崎さんの唇が不気味に歪む。――「いる」。その一言は、僕に嫌な予感を抱かせるには十分だった。
「まだ、そこに」
皮肉めいた笑みは、地面に向けられている。視線の先に落ちていたのは、灰色のハンカチ。
「見ろ。これが独善の天使によって囚われ、導かれた者の末路だよ」
それは紛れもなく、僕が夢の中で拾ったものと同じだった。





