52:偽ピーチパイ・ボインスキー、現る③
第3者視点です。
俺の名前はラッセ。
兄弟がたくさんいるので、普段は街に出て紳士相手に靴磨きをし、小銭を稼いで両親の助けをしながら暮らしている十四歳のガキだ。
どこにでもいる平民のガキであった俺は、去年の冬の聖夜祭前日に、とつぜん人生の大きな転機が訪れた。
雪が散らつきそうな寒空の下のカフェテラスで、常連の老紳士が珈琲を楽しみながら俺に靴を磨かせている。
老紳士は珈琲のカップをソーサーに置くと、革の鞄の中から一冊の本を取り出し、ゆっくりとページを捲った。
そして暫く本を読んでから、老紳士はうっとりと呟く。
「あぁ、実に良い。久しぶりにボインスキー先生の過去作を読み返したが、何度読み返しても新たなときめきを見つけてしまう」
「お客さん、読書家なんですね」
俺が適当に相槌を打つと、老紳士は小さく笑った。
「ボインスキー先生の小説を読むことは、ただの読書ではない。これは僕の命に潤いを与える、いわば生命の水だね」
「文字がびっしり書かれているのを読むのが生命の水とは、お客さんはすごいですね。俺にはきっと無理だな」
「いや、きみくらいの年頃なら、ボインスキー先生の作品に簡単にのめり込むと思うが」
老紳士は『良い思いつきが浮かんだ』という顔を一瞬した後、俺にその本を差し出してきた。
「きみにこの本をあげよう。いつも丁寧に靴を磨いてくれるし、なにより明日は聖夜祭だ。ちょっとしたプレゼントだと思ってくれ」
「そんな、本は安いものじゃないのに、悪いですって」
「大丈夫。僕はボインスキー先生の本を保存用も持っているからさ」
老紳士はそう言うと、気前よく俺に本をくれた。
正直、俺は読書というものが苦手だ。勉強全般大嫌いだ。文字がびっしり並んでいるところを見るだけで頭が痛くなってくる。
でも常連さんがくれた本を一度も読まないというわけにはいかない。次にやって来てくれた時に感想を聞かれるかもしれないからな。仕方がない。今回だけは頑張って読むか。
そうして嫌々読み始めたボインスキー先生の本に、俺はどっぷりと嵌り込んだ。
ちょうどその頃の俺は、平民街で三番目くらいに可愛いバニラちゃんに思わせ振りな態度をされたのに、こっぴどく振られたばかりだった。
「俺のこと好きって言ってくれたのに、なんでだよ、バニラちゃん!?」
「え? わたし、ラッセ君のことを好きだなんて一言も言ったことないよ?」
「言ったじゃないか!! 『ラッセ君って色んな噂話を知ってて凄いね。客商売だから?』って。これって意訳すると、俺のことが好きってことだろ!?」
「そのまんまの意味で他意はないよ!? ラッセ君、怖っ!!」
バニラちゃんはそう言って、走り去っていった。
俺の何度目かの恋はこうして儚く散った。
そんな傷心の俺に、ボインスキー先生は素晴らしいことを教えてくれた。
二次元の美少女たちはいつでもエロ可愛いことを。
二次元の美少女たちはどんなだって主人公(つまり俺)を愛してくれることを。
二次元の美少女たちは絶対に俺を裏切らないことを。
彼女たちはけっして「ラッセ君怖い」とか「キモイ」とか言わないんだ。
俺はボインスキー先生の作品にのめり込み、一生懸命靴磨きをして稼いだ小銭を少しずつ貯めて、貸本屋に通うようになった。
国立図書館は貴族や富裕層、学者など、入館許可証のある者しか本を借りることが出来ない。けれど貸本屋でなら、俺のような平民でも本を借りることが出来る。
ただ、ボインスキー先生の本は予約がいっぱいで、中には半年待ちの小説まであって大変だったけれど。
そうやってボインスキー先生が生み出す美少女たちにのめり込んでいると、だんだん俺は自分だけの理想のヒロインが欲しくなってきた。
可愛くて、エロくて、おっぱいが大きくて、俺のことがめちゃくちゃ好きで、なんでも捧げてくれるような理想の美少女が少なくとも百人は欲しい。とにかくちやほやされたい。
俺は欲望のままにペンを取り、小説を書き始めた。
俺の小説は無事に書き上がった。しかし俺の小説を読んでくれる読者は一人もいなかった。
ボインスキー先生の本をくれた老紳士にも「ぜひ読んでほしい」と紙の束を渡そうとたが、
「素人が初めて書き殴ったものを読む暇はないよ」
と断られてしまった。
実績がないと、他人から相手にしてもらえない。
それはそうだ。靴磨きの仕事だって、兄からしっかり教わってからやっと、客の相手が出来るようになった。そして少しずつ実績を重ね、「このボーズなら安心して靴磨きが任せられる」と客に思われるようになってからやっと、仕事が途切れなくなったのだ。
でも、小説はどうやったら他人に読んでもらえるようになるのだろう? 「読んでほしい」と知り合いに頼み込んでも、そのほとんどが相手にはしてくれなかった。
それでもどうしても自分で書いた小説を読んでほしかった俺は、いけないことだと思いつつも、禁断の方法に出た。
ボインスキー先生のまだ出版されていない新作だと嘘を吐いて、他人から読んでもらおうとしたのだ。
結果は散々だった。
最初はたくさんの人が先生の小説を読ませてくれとやって来てくれたが、ほんの数ページ読んだだけで誰もが「これがボインスキー先生の新作?」と疑いの目を向けてきた。
自分ではよく分からないが、ボインスキー先生の作品とは何かが決定的に違ったのだろう。
そしてしまいにはボインスキー先生の名を騙った詐欺師として小説を酷評され、俺の心はズタズタになってしまった。
もう小説なんか書くのはやめよう。
別に書かなくてもいいんだ。俺なんかどうせ小説を書く才能は無いし、書かなくても俺の頭の中には、エロくて可愛くておっぱいが大きくて「ラッセのことがダーイスキ♡」って言ってくれる美少女が百人居るし、それでいいんだ……。
そう思うのに、俺は涙が止められなかった。
「ふはははは!! 我々は王立品質監察局だ!! ここにピーチパイ・ボインスキーが姿を現したと聞いている!! おとなしく我々についてこい、この魔王め!!」
俺を囲う人だかりの端に、品質監察局の人の姿が見える。「すまないが道を開けてくれ! 私を通してくれ! やつは私の人生の宿敵なんだ!」と叫びながら、少しずつ俺の方に近付いてきた。
これはきっと天罰だ。
ボインスキー先生の名を騙った俺は、きっと品質監察局の人に捕らえられて、詐欺師として訴えられるてしまうのだ。
俺がそう思って顔をうつむけると。白くて大きな手が視界にニュッと現れた。
「ねぇ、きみ。早くこっちに来てくれる?」
顔を上げると、白っぽい金髪と鮮やかな緑色の眼をした綺麗な顔があった。一瞬女性と見紛うほどの美青年だ。
どこかの令息という雰囲気だ。着ているものも見るからに上物だし。俺より二、三歳年上らしく、とても背が高い。
青年は俺に顔を寄せると、素早く言った。
「お義父様に僕の存在を気付かれるわけにはいかないんだ。早くついて来て」
「え、えっと……。もしかして、俺を助けようとしてくださってるんですか? でも俺、捕まって当然の詐欺をしたんで……」
「ピーチパイ・ボインスキーがきみに会いたがっていると言ったら、一緒について来てくれるでしょ」
「え……?」
俺の神様が? エロの伝道師ピーチパイ・ボインスキー先生が……?
彼の言葉に頭が真っ白になる。
そして気付くと俺は彼の手を取り、人だかりの隙間を縫うように走っていた。
細い路地裏へと入り、青年は迷いのない足取りで人気のない方へと進んでいく。彼は不思議と人の少ない道が分かるようだった。
そして最後に大通りへ出ると。
俺たちが到着するのを待っていたかのように馬車が停められていた。
いかにも貴族の馬車といった感じの高級な馬車の傍には、可憐なご令嬢がひとり立っている。
ご令嬢はへにょりと眉を垂らして、困ったような笑顔を浮かべると、青年に「お疲れさま、アンタレス」とハンカチを差し出した。青年はハンカチを受け取ると、静かに額の汗を拭う。
ご令嬢はつぎに俺の方に視線を向けると、
「初めまして。私と同じ崇高な野望を持つ仲間よ」
と、これまた困ったような笑みを浮かべて言った。




