15:未来の薬草学王、失恋する
モブ視点
「バギンズ様がついにノンノ様に求婚なされたそうよ。年内に婚約されるのですって。とても御目出度いお話ですわ」
「まぁ、在学中にご婚約だなんてお熱いことね。あのお二人は幼馴染みでいらっしゃるから、ずっと初恋を暖めていらっしゃったのかもしれませんわね。素敵だわ」
二人組の女子生徒がそんな話題を口にしながら、渡り廊下を歩いて行く。
学園内の研究棟に程近い薬草畑に向かうための近道を通っていた私は、呆然と彼女達の後ろ姿を見送った。……彼女達を追いかけて、その噂を詳しく尋ねる勇気すら湧き上がらなかった。
私の胸にはぽっかりと穴が開き、その空白のせいで自らの体を支えていることすら辛い。
ノンノ・ジルベスト子爵令嬢ーーー私の清らかな天使。
私の美しい初恋の人が、こんなにも早く誰かのものになってしまうだなんて。想像もしていなかった。
バギンズ伯爵令息様より先にあなたに想いを告げていたら、あなたの恋人になれるのは私だっただろうか。そんな醜い後悔が込み上げてくる。
……だが、例えこの悲しい未来を先に知っていたとしても、私はきっとジルベスト嬢に告白をする勇気など持てなかっただろう。
私はしがない男爵家の五男で、天然パーマのボサボサの髪は鳥の巣のようだし、分厚い眼鏡をかけた顔はあまりに冴えなかった。伯爵家の嫡男で、美しい容姿を持つバギンズ様に勝てるところなど一つもなかった。
勉強も、薬草学ばかりに夢中になっていたため、他の教科の成績はあまりよくはなく、トータルの成績もバギンズ様の方がずっとずっと上だ。
しかもバギンズ様とジルベスト嬢は幼馴染みだという。……客観的に見て、私が彼女に選ばれる理由など一つもないのだ。
『薬草学がお得意なのですか? それは素晴らしいですわね』
失恋と、自己肯定感さえ失いつつある私の脳裏に、初めて出会った日のジルベスト嬢の言葉が蘇ってくる。
ーーーああ、そうだ。
私にかけがえのない初恋と、そして自己肯定感を与えてくれたのは、あなただった。
私は初めてジルベスト嬢が儚げに微笑みかけてくださった日のことを思い出した。
▽
去年の春の終わりのこと。
王立貴族学園にまだうまく溶け込めずにいた私は、研究棟の近くにある研究用の広々とした薬草畑を見つけて感動していた。
私は植物を育てるのが好きだった。
私の生まれた家は男爵家とは名ばかりで、領民と共に汗水流して農業をしていた。派手好きの次兄はそんな我が家を嫌ってさっさと家を出ていったが、残りの家族は私も含め、その生活になんの不満も持たっていなかった。
麦やじゃがいもやとうもろこしなど、食物作りも楽しかったが、私が特に好きだったのは薬草作りだった。
田舎にはあまり医者がいない。その代わり民間療法として薬草で作った虫刺されの薬や喉の腫れに効くシロップなどが重宝されていた。
領地のはしっこに、薬作りの名人と知られているオババ様が住んでいて、私はよくオババ様を訪ねては薬作りを教わった。
「坊ちゃまが王立貴族学園へ入学されれば、さらに多くのことを学べるでしょう。オババは平民だったので学園で学ぶことは出来ませんでしたが、研究棟で薬草学を研究することが夢でしたよ」
「では私がオババ様の夢を叶えますよ。学園を卒業して研究棟に入り、薬草学をたくさん研究します。そしてオババ様に薬草学の新しい知識をお教えしますね!」
「それはそれは、楽しみですねぇ。あんまりに楽しみで、あと百年は長生きして待っていられそうですわ」
「約束ですよ、オババ様!」
そうして入学した貴族学園の、あまりのハイカラぶりに私は後込みしてしまい、薬草学に集中することが出来ずにいた。
しょせん私は田舎貴族の五男。きらびやかな社交界を渡っていく令息令嬢たちとは世界が違うのだ。友人が一人も作れずとも、薬草学が学べるならばそれでいいじゃないか、と自分に言い聞かせるのだが。だんだん自分のすべてに自信を失ってきた。
そんな矢先に学園の薬草畑を発見し、私の心は癒されたのである。
「わぁ……、すごいな、この薬草は育てるのが難しいはずなのに、こんなに立派に育っている。こっちの薬草なんて男爵領では一度も見たことがないな……」
オババ様がこの薬草畑を見れば寿命が千年も延びるのではないかというほどの、素晴らしい場所だった。
ぜひこの薬草畑の管理人に面会し、いろいろ話が聞きたい……と思ったが、すぐさま気後れしてしまう。
私のような田舎の男爵家の五男がそのような素晴らしい管理人に話しかけるだなんて、きっと失礼だ。仕事の邪魔をするだけだろう。
そう思って溜め息を吐きそうになる私に、後ろから声を掛けてくる人がいた。
「申し訳ありません、もしかして薬草に詳しい御方でしょうか? お尋ねしたいことがあるのですけれど」
振り返るとそこにいたのは、田舎では見かけないほど白い肌に、薄茶色の髪と瞳をした美しい令嬢だった。線の細い体や伏せがちに生えた睫毛のせいか、ひじょうに儚げな雰囲気がある。
いかにも土いじりなど経験したことがなさそうな都会の令嬢を前に、私はたじろいでしまいそうになる。
しかし田舎男爵家とはいえ一端の貴族である。女性から話しかけられて逃げるような真似をするのは、紳士の振る舞いではない。
私は震えそうになる両足にぐっと力を入れ、令嬢に返事を返した。
「……詳しいと言えるほどではありませんが、薬草が好きでして。領地ではいろいろと薬草を育てておりました」
簡単な薬なら調合も出来ます、と言えば、令嬢は美しい瞳をパァッと輝かせた。キラキラと輝く琥珀のようだった。
「私、どうしても欲しい(媚)薬があるのです! 禍々しいピンク色の飲み物で、味はたぶん舌にこびりつくほど甘くて、一口飲むだけで体の細胞が活性化されてすごく元気になって普段よりも持久力が増す、そんな夢のような(媚)薬が……っ!!」
……体力が回復して元気になれる飲み薬ということだろうか。
そんな夢のような薬があるとはオババ様から聞いたことはないけれど、実際にあるとすれば本当に素晴らしい薬だろう。
たとえば食事を受けつけない病人に飲ませたり、栄養失調の孤児たちに与えたら、彼らの命を救うことが出来るかもしれない。
「そんな奇跡のような薬の話は初めて聞きました。ご令嬢、ぜひ詳しく教えてください!」
とても興味をそそられる薬の話に、気付けば私は先程までの気後れを忘れてそう言っていた。
困ったように微笑んで頷いたその令嬢こそが、ノンノ・ジルベスト子爵令嬢だった。
▽
それから私とジルベスト嬢は薬草畑で度々会い、夢の薬について話すような関係になった。
『噎せ返るような満開の薔薇の香りがして』
『いかにも怪しい感じの小瓶に詰めると素敵だと思うんです』
『あ、でもやはり無味無臭の方が使い勝手がいいかしら。ほかの食べ物に混入しても気付かれませんもの』
ジルベスト嬢は一生懸命、病気の人や栄養不足の人のことを考えて、薬の話をしていた。
薔薇のいい香りがする薬なら気分も良くなるだろうし、無味無臭なら薬を飲みたがらない幼子にも与えやすい。
薬瓶にまで拘るのも、きっと飲む人の心を癒すための遊び心だろう。私にはまるで思い付かないような、女性ならではの視点だ。
私は彼女と話す内に、男爵領で暮らしていた頃の自分を取り戻して、私は少しずつ王都の暮らしに慣れていった。
薬草畑の管理人と面会し、彼の手伝いをさせてもらいながら様々な薬草について学び始めた。
クラスの人たちとも少しずつだが話せるようになり、ペアを組まなければならない授業で一人あぶれることもなくなった。
そのすべてが、ジルベスト嬢のおかげだと私は思っている。
ジルベスト嬢があの日私に声をかけてくれなかったら、奇跡の薬について話してくれなかったら。私はこんなふうに未来への希望を抱いて笑うことなど出来ないでいただろう。
会う度に「(媚)薬の研究は進んでいますか?」と微笑みかけてくれる彼女に私が初恋を捧げてしまったのは、当然の帰結であった。
私の初恋の人。優しい心で奇跡のような薬の誕生を待ちわびている、私の天使。
あなたの隣にはすでに私以外の人が居たのですね。
あなたが選んだ方だから、きっととても素敵な男性なのでしょう。
そして絶対に、あなたを幸せにしてくれる人なのでしょう。
どうか、どうか幸せになってください、ジルベスト嬢。
私はここであなたの幸せを祈っておりますから……。
▽
「……ノンノ」
「うん? どうしたの、アンタレス?」
「あそこに立っている男子生徒のことなんだけどさ……」
「あ、ポーション男爵家のサム様だ。めっちゃ友達だよ、私の媚薬を開発してくれてるの! ほら、うちのお父様が国内の怪しい薬は全部摘発しちゃうし、国外からの輸入も許可してくれないからさぁ~。サム様にこっそり横流しして貰う予定なんだ」
「ノンノ、お義父様は本当に何一つ悪くないんだ。正しいことをされているんだよ……」
「正論でスケベ心が納得すると思っているなら大間違いだからね、アンタレス。……サム様、ごきげんよう~」
暢気に近付いていくノンノと、顔を赤くしながら挨拶を返すサム・ポーションという男子生徒の様子に、僕は思いっきり頭を抱えたくなる。
たまにノンノの見た目に騙されて恋に落ちる男子がいるが、彼の勘違いもなかなかすごい。
なんだよ『私の天使』って、と思ったが、僕も初めてノンノを見たときは妖精だと思ったことを思い出し、羞恥に震える。
読心力がなければ僕も彼と同じ勘違いをしたままだったのだろうか……。
「ご、ご婚約されるとお聞きしました……。おめでとうございます、ジルベスト嬢」
「ありがとうございます、サム様。婚約の件はまだ両家の間で話し合っている段階なのですが、年内には国王陛下にお話しして、婚約披露パーティーを開きたいと思っておりますの。サム様もぜひ来てくださいね」
「はっ、はいっ。……ジルベスト嬢、どうかお幸せになってくださいね」
「もちろんです」
ノンノがいつもの困り笑顔でうなずく。
「サム様があの(媚)薬を完成してくださったら、私、ますます幸せになりますわ! ずっとずっと応援しておりますからね」
ポーション男爵令息は丸縁眼鏡の奥の瞳をハッとしたようにおおきく開き、それからゆっくりと微笑むのが離れた場所にいる僕からも見えた。
「ジルベスト嬢を幸せにすることが私にも出来るなら、私はこれからも研究を続けますよ。きっと薬が完成すれば、多くの人を救うことが出来るでしょう」
「(うんうん、そうだよね、みんな媚薬欲しいよね)頑張ってくださいませ」
「はい」
『さようなら、私の初恋、私の大切な天使、私はきっとこれからもあなたをーーー』
長いポエムが聞こえてきたので、意識しないように僕は窓の外を見た。
今日もこの国は実に平和だ。
▽
サム・ポーション男爵令息はその後も薬草学を学び、学園卒業後は研究棟に入って様々な薬を研究し続けた。
特に彼が開発した体力回復の薬は、病気や栄養不足で悩む人々を助け、また騎士や冒険者たちからも重宝された。国は彼の功績を称え、彼に爵位を与えた。
サム・ポーションは百三十歳の恩師と共に研究に明け暮れる日々を送っていたが、四十代になってから若い妻を娶ることになった。彼の作った体力回復薬のおかげで救われたのだと言って、押し掛けてきたのだ。そしてなんやかんやで結婚することになったらしい。
「サム、実はね、わたくしの初恋はあなたなのよ」
妻がそう言って笑う度に、彼は学生時代の記憶がふわっと浮いては、掻き消されていく。
「ありがとう。あなたは私が初めて愛した女性ですよ」
分厚い眼鏡の奥の瞳を柔らかく細めるサムの言葉に、嘘は一つもなかった。
ノンノ「媚薬は?」




