31
息で埃が舞う。棚や書籍、紙類の全てが、埃の膜で存在感を消そうとしていた。そこら中に飾っていた、家族や夫婦、仕事での思い出は、デスクや床、棚の裏側に、ピンと共に散らばっていたが、そんなものはどうでもよくなっていた。
パソコンを含む機械類は冷めている。それらの点滅すら目障りだった。電源を入れた瞬間、家中は忽ちコールで溢れ、自分はきっと、人ではなくなってしまうだろう。液晶をつけようものなら何が映るかなど、実際に見るより明らかだった。
閉ざした視界の向こうは、モニター周辺に破片が残ったままになっていると知っている。気にしたくないのに気にしてしまうのは、指先の傷のせいだ。それでも、身体は鉛のようになっている。
絨毯に揺れる仄暗い影の中に、数枚のエコー写真が落ちていた。妊娠をして2年目。一時は、妊娠しているのかどうかを疑うほど腹が出てこなかったが、今はここに居ると一目で分かり、ほっとする。
それでも、いつまでも外に出ようとしない息子に、どうしてかと強く問い詰めてしまうこともあった。つい先ほども、声にならない悔いと寂しさを握り締めた手を、腹に当ててしまった。
この家の居心地の悪さを実感しているのだろう。居たはずの父親が居ないことにも、気づいている。もたもたしている母親に、顔を見せる気など湧いてこないに違いない。負の感情が連鎖しながら、涙や不安が押し寄せる。そしてその度に、胎動を感じてきた。当然のように起こるそれは、いつも力強いものだった。何としてでも生きようという気力を与えてくれるような、前向きにさせてくれる力に思えた。
そうして繰り返し救われると、息がやっと、声になった。
「坊や……パパは……生きてたわ……」
薄く開いた目に灯を迎えた。ランプの元で、金色のゼンマイが回るオルゴールに微笑むと、また、生きている、と呟いた。
ぼやける視界に立つ写真に目が留まる。骨と血管が目立つ手でそれを掴んだ時、どっしりとした重みを感じた。どうにか握力を絞り出し、顔まで近づける。
あの時、肩から大きく抱き寄せてくれた夫の感触を、温度を、香りを、声を、忘れたことはない。絵画の中に飛び込んだように美しいショットは、腕のある少年のお陰だったことを、ふと思い出す。
幸せに満ちた当時に浸っていると、頬の傍に写真立てを落とした。胸が強く締め付けられるにつれ、涙が滲み出る。この痛みが呼び続ける恐怖やショックを緩和できるのは――
息子がまた、蹴った。
涙声が、吐き気と嗚咽に混ざり合う。孤独の寒さによる震えが、外に対する怯えからくる震えと重なる。温めても温まらない生活は、果てしなかった。電源を断った機器を1つ起動させようものならば、膨大な欲望を孕んだ猟師が、こちらに襲いかかるだろう。家の外で、幾つもの目がレンズと共に光り、息を潜めているに違いない。
どれだけここに思い出を詰め込み、気持ちを誤魔化そうとしても、傷は癒えなかった。どんなに夫や息子を想っても、ノイズは割り込み続けた。それにふと、顔を上げる。
逃げてしまえばいい。逃げて、夫を見つけ、息子をこの腕の中に迎えよう。
自分達は、特別な家族でもなんでもない。自然の魂を学び、人の治療に専念して生きていただけだ。その傍ら、ずっと身を潜ませる可愛い息子がいる。たったそれだけのことだ。
夫がどこかに居ると分かっているのだから、探したい。この手で壊れた部分を直し、温め、いつまでも満たしてあげたい。例え夫がどんな風になっていようとも、関係ない。だから
「邪魔をしないで……」
自分達はただ、元に戻りたいだけなのだ。貴方達が生活を送るように、自分達ももう一度、そうしたいのだと、重い顔を上げた。
逃げてしまおう。そうすればきっと、この気持ちを叫べる場所に辿り着ける。森にいるかもしれない夫と落ち合って、誰も居ない場所で生きるのはどうだろうかと、希望が巡りだす。
「会いに……行きましょうね……」
息子はまた、腹を蹴った。擽ったいあまり、今日初めて、力無い笑いをこぼした。
やっと起き上がると、顔を灯にさらした。暫く鏡も見ていない。どれだけ崩れているかなど、わざわざ見たくもなかった。
何周も巻いたオルゴールのゼンマイが、止まろうとしているところ、もう少しだけ回した。そして、姿を見せようとしない息子に聴かせた。
デスクや窓枠に置いていた観葉植物は、自分を見ている様だ。この家から生気が失われている。少し現実から目を背け過ぎただろうかと、また、写真立てを取った。そこに薄くかかる埃を指で拭うと、ガラスの向こうの頬に触れる。
「ステファン……」
寝室には再び、オルゴールの音色に合わせた鼻歌だけになった。
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