5
妻が瞬きも忘れて瞳を震わせている。ステファンは、それにどこか擽ったくなり、視線がベッドに落ちてしまった。
「おかしくないのか?」
「どうして? 素晴らしいことじゃない」
「……俺は、ずっと君を笑ってきたのに?」
そうだっただろうかと、ホリーは1つ瞬きしては、夫の細い指を絡め、広い手を握った。本格的に外科医になった彼の手は、既に多くの戦いを経て、経験が肉になって現れてる。
「細胞と話せるなら、お礼を言っておいて」
その言葉に、夫の顔が忽ち子犬のようになると、ホリーは幼く笑った。
「もう、やっぱりおかしいわ! 分からないなんて! 感謝しかないじゃない。その細胞のお陰で、私達がいるんだから」
ホリーは言いながら、夫の頭を雑に撫で回す。
ステファンは思わずその手を払うと、ごく当たり前のことをわざわざ真剣に取り上げて話す自分達に、笑いが込み上げた。
「俺達おかしいって!」
「あら、そんなこと無いわ。それに、おかしくたって別にいいじゃない」
「職場で言わないでくれよ、恥ずかしい」
「どうしてよ。私が願ってることだって、皆理解してくれてるわ」
それでもだと、ステファンは妻に指を突き立て、発言を止める。しかしホリーは、いつまでも笑いが止まらなかった。夫がおかしいのではなく、その口から出た素晴らしいものに心が包まれるようで、心地良かった。
手に取れない、目に見えない、聞き取れない何か。それらは幻想で、夢の存在だとされているものだが、ホリーの考えは違った。
奇怪さや不思議さ、奇跡な事象があるならば、それを起こさせる何かはきっとある。彼女は、そう考えてきた。
「私達は、もっと五感を研ぎ澄ませなきゃいけないのよ。動植物を視るのは、彼等がこの先もずっと生きていられるように、置いてけぼりにしないようにって思ってきたから。でも……」
ホリーは、ふと、皺が寄る毛布の花柄をなぞるように、視線を這わせた。
「ひょっとしたら、それは違うのかもしれない。感覚を意識しなければ、置いてけぼりにされてしまうのは私達なのかもしれない。今はそう思う」
ステファンは、口をぽっかり開けたままになる。しかしホリーは、澄んだ瞳をじっと夫に向け、胸を張るように続けた。
「貴方、前に言ったことがあるでしょ? 命は廻ってる。人もまた、自然の一部で、再び返り咲くとすれば――」
「それは、必ずしも人ではないかもしれない。水や木かもしれないし、華かもしれない。なぜなら、以前、子どもを亡くした母親が言ったんだ。その華はまるで、息子を見てるみたいだって……」
ステファンは、妻の柔らかな声に導かれながら当時を思い出すと、その先を口にした。ホリーは頷くと、眼差しをそのままに、更に続ける。
「そう、その話を忘れたことはない。見えないから居ないんじゃない。見えなくても、どこかで共存している。そうできるのは、動植物や蟲という、器とも呼べる身体があり、彼等の世界があるからかもしれない。人間の数は増えたけど、世界は人間だけのものではない」
「……えっと、何の話だったかな」
随分と広がってしまった会話に、ステファンはとぼけてみせた。ホリーは、ここでやっと瞬きすると、夫の表情に釣られて、またころころとした笑い声をこぼした。
身体の芯から温まるほどに愛しい妻に、ステファンは微笑むと、彼女を首後ろからそっと引き寄せ、唇を重ねた。
妻はずっと、香りと温もりを保っている。何故いつもそうなのか。全身から湯気でも立っているのだろうかと、ステファンの両手は自ずと、妻の身体を我が儘に引き寄せていく。
シャツの下に潜り込む夫の手に、ホリーは擽ったい振りをしながら唇を離すと、彼のそれ以上の接近を人差し指で止めた。
「駄目よ。明日は動くし、朝早いんだから」
ステファンは時計を見て、目を丸める。6時間眠れるかどうかの時刻になっていた。初心を取り戻そうと、軽くページを開いただけのはずだというのにと、自分に呆れて、また笑ってしまった。
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