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*完結* Dearest  作者: Terra
Half-Open ~開花の半ば~
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27




 年が明けて1週間が経った。妻は、昨年最後の検診結果を聞いてから、溜め息が増えていた。



「健康だけど、成長が少し遅いみたいで……」



 そう言ってまた、深く、長い息を吐く。


 産科医は、これまでの検査結果と比較すると、子どもの体重や身長に、微々たる差しか見られなくなっていると言う。とはいえ、母子ともに健康ではあった。



「あくまで予定だから、生まれる日が前後するのは自然だって……早く会えるといいんだけど……」



 妻はベッドに入ると、決まって不安を呟くようになった。ステファンは、毛布にくるまって横になる彼女の腹に、柔らかく触れる。見たことのない妻の姿を、舐めるように、じっくりと見回してしまう。そしてまた、視線を腹に戻した。



「それにしても、本当に男の子だったのには驚いたわ! こんなこと、一生忘れられないでしょ!」



 落ち込んでいるかと思いきや、急に笑みをこぼす妻に、ステファンも笑い返した。




 妻にしてやれることは、きっと歪んでる。それでも、彼女に銃口を向けさせる訳にはいかなかった。今この瞬間、意識するべきなのは、彼女に爪を立てないようにすること。彼女の身体に、力を入れすぎないようにすること。妻を、この子を、壊してしまわないようにすること。そしてこの子には、妻の血も流れているということもまた、胸に刻み続けた。


 コヨーテが表現する生き物と、我が子とは、全く違う存在のはずだ。ステファンは瞬きも忘れて、胸の内でそれを繰り返し呟いた。すると、手に妻の温もりを感じた。



「難しい顔……当たり前よね、検査なんて誰もが不安になる……」



 優しい言葉が、心地よく胸に流れ込んでくる。ステファンは、注意深く妻の手を握り返すと、手元に視線を落とした。何も言葉が出てこず、口は重く閉じ切ったまま、動こうともしない。そんなことも、妻は静かに察してくれた。



「ねぇステファン、私はどんな貴方も愛してる。だから、一緒に向き合いましょう。この子もいる。私達なりの幸せな人生を生きられれば、それでいいのよ」



 ステファンは、やっと唇が綻んだ。だが、それでもまだ、声は息にすらなろうとしなかった。妻の顔を見られないまま、視線はそっと、暗い床に落ちていく。


 頭の中で、情報がもつれていた。妻が言う検査のことも、自分達なりの幸せというものが何なのかも、ぼやけていた。色々な記憶が、脳内のいたるところから出入りし、散らかり、1本の綺麗な思い出になるには、もはや程遠く感じる。




 視線の先の闇に、自分が吸い込まれていくような気がして、咄嗟に妻を振り返った。彼女は半ば眠りかけていたところ、瞬きで、こちらを気にかけてくる。ステファンは、噤んでいた口がやっと開くと、そこからの強い、愛おしい香りに惹きつけられるように、妻の頬に顔を近づけた。

 唇は、押しつけるというよりも、彼女の肌を優しく食むように撫で、耳や首を這った。鼻息が擽ったいと、彼女は眠そうな声のまま笑った。



「おやすみ……」



 ステファンは囁くと、また、笑われた。



「貴方もでしょ。早く横になんなさいよ」



 もう用は済んだはずだろうと、妻は目を閉じたまま言う。ステファンは、ふと、デスクを振り返った。そこには、必要事項を記入し終えた書類が出たままになっていた。精神検査という文字が並ぶそれは、あさって、心療内科で提出することになっている。


 生活のことや、家族の行事を終えてからと、後回しにしていた。それをやっと受ける気になったのは、妻の説得によるものだった。そのことを思い出すと、胸に熱いものが立ち込めてくる。



「すぐ寝る……少し、片づけてから……」



 ステファンは、発言ごと込み上げそうになる、焦燥のようなものを、どうにか呑んで押し込むと、妻に笑いかけた。そして、彼女の額にキスをすると、眠りかけの表情にもう一度、小さく夜の言葉をかけた。






 そのままずっと、妻の横に腰かけていると、やがて、彼女の柔らかな寝息が聞こえてきた。

 ステファンは、ランプを消すと、側の写真立てを見た。闇に包まれようとも、そこに写る妻にだけは、レースカーテン越しの街灯の光が射して、眩しい。

 美しい妻を、影で眺めてきた。その役目が悪くないと思えたのは妻の影響であり、彼女が魅せてくれた自然のお陰でもあった。写真がもたらす記憶の蘇りに、ステファンは、僅かに救われた。


 窓に近づくと同時に、コヨーテの遠吠えを聞きつけた。周囲の動物達を巻き込むと、足が増えた。標的の特定が速まり、その居所に早く辿り着けるようになった。


 満ち始めの細い三日月から、遠くの森を見据える。隙間風が運んでくる鉄臭さや、硝煙の臭いに、視界が灰色に染まり、小刻みに揺れていく。その景色を物理的に拭えないと知りながらも、カーテンを乱暴に引いた。






 ステファンは、玄関を出た先で立ち止まった。寝静まった住宅街に、淡い雪がちらついている。しかし、身体は燃えるように熱かった。息の白さも、見るからに暑苦しい。

 黒で占めている普段着は、軽装であれ心地よかった。体内に籠る熱を払い除けようと、首や身体を振り、節々を回す動作は、動物の胴震いそのものだった。


 長い遠吠えに、人の耳でありながら、凛と立つように固くなる。耳の奥から脳へ、じわじわと流れながら形作られていく意味を、聞き取っていく。


 どこまで走ることになるのか。何十キロと離れた先のターゲットまでも懲らしめられる。それを想像すればするほど、全身を巡る強い欲望が、口角を薄っすらと引き上げてきた。




 止まっていた足が、山脈に向いた。ステファンは、遠い闇と、そこに緩やかに立ち込める銀の靄の瞬きに、吸い込まれていくと――家を後にした。








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その他作品も含め 気が向きましたら是非



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