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自宅からほんの5メートルほど離れたところで、ステファンは大きく息を吸い込んだ。喉を一気に流れる冷たさに、胸に渦巻く熱が抑え込まれていく。それを実感するや否や、また、沸々と怒りがこみ上げ、咄嗟に胸を掴んだ。
人としての身体だ――そう押し通す一心で、深呼吸を繰り返した。すると、今度は耳鳴りが邪魔をしてきた。
等間隔に立つ街灯が、周辺に闇を寄せ集めている。自分をそこに迎え入れ、灯を届かなくしようとしているようで、躊躇いに首が振られる。
熱に溺れそうになる身体を叩き、正気を取り戻そうとする。そうしている内に、コヨーテのこれまでの言葉が蒸し返され、瞼を抉じ開けてきた。
さらされた視界に、息を呑む。眼が乾いていくせいでぼやけているのではない。色が溶けて分からなくなっているのではない。
ステファンは、灰色になった景色に視線を這わせた。通過する木の葉が、まるで風に丁寧に差し出されるように近づいてくるのを、そっと躱した。
木の枝が緩やかに上下している。何かがそこを掴み、そのように動かしているようだ。
通過する車は徒歩に近く、ボディやヘッドライトも同色をしている。
状況に焦り、遠くに広がる森林を見据えた。その奥を見たいという、急に芽生えた強い欲望に、瞬きも忘れている。そして、何かが燻さるような臭いがしてくると、ある光を捉えた。街灯に似たそれは小さく、森林のずっと奥に潜んでいる。そこには、自然で溢れる散策ルートだけが広がっているだけで、街灯や住宅などはない。
だんだん、周囲の音が薄れはじめた。そして、入れ替わるように話し声がしてくる。ぼやけており、内容は分からないが、確かに誰かが笑っていると認識できた。これまで出会ってきた獣達のものではない、嗄れ声をした、聞くからに汚れている――人間のものだ。
このまま道を下った先の角に、目的の小さなコンビニエンスストアがある。ところがステファンは、道を外れ、脇の広場の芝生を進んだ。
その足取りは速く、ぼやけていた視界や声が、じわじわと鮮明になっていく。そこに何があるのか――答えと快感を得たいあまり、とうとう森へ突き進んだ。
暗く、誰もいないそこでは、何を隠す必要もなくてほっとする。妙なことに、例え何かが起きようとも、察知できたものを確実に回避できる自信があった。
先ほどから聞こえる笑い声が、脳いっぱいに響いていた。そしていよいよ、それらは言葉としての形を成していく。
「早くずらかるぞ。しょっぴかれたら厄介だ」
「こいつはいい装飾になる。高値がつくだろう。肉はお前にやる」
耳障りな喜びの声に、ステファンの身体が膨らみを帯びていく。辺りには、幾つもの銀の光の線が、風に乗るようにふわふわと漂いはじめた。声と臭いの出所を探り、それらは楽し気に、宙に波を描きながら進んでいく。ステファンは草木を掻き分けながら、それに導かれていく。
“そんな風には殺さないで欲しいの”
「殺……すな……」
背後から追いかけてきた、誰かの柔らかい声に、ステファンは、込み上げてきた思いをそのまま重ねた。
“連中はいずれ、その皮を欲しがるだろうよ”
そうはさせるかと、続けざまに追ってきた獣の声に、息を荒げる。ステファンは、勢いのまま歩幅を広げた。踏み込んだ拍子に弾けた枝が、瞬く間に脇の闇に消える。
“自然は……お前達を見てる……”
巡り巡るその声と入れ替わるように、また、遠くから汚れた笑い声がした。血生臭さと硝煙の臭いが濃くなるにつれ、ステファンは、鼻息荒く突き進んでいく。
やがて、猟銃を背にする2人組が見えた。小さくなっていく彼等の背中を捉えた瞬間、ステファンの歯が軋んだ。
規制の柵を越えて手にした獲物が、そこに揺れている。わざわざ見なくとも分かる違反者達の満面の笑みに、ステファンは、喉が裂けんばかりの鋭い威嚇を放った。
それを真っ先に聞きつけた動物達は、巣や枝から飛び出すと、眼を銀に光らせ、ステファンの背後や頭上を疾風の如く擦り抜けた。
動物達は、森中に奇声を犇めかせながら、ステファンの睨みに従うように、去りゆく2人のターゲットに迫る。
追い風が吹き上がるまま、ステファンは空を仰いだ。闇に呑まれてしまった新月は、見えやしない。慰めの月光を見つけられない寂寥に溺れかけた時、孤独に握り潰されそうになる。その焦りが、甲高い遠吠えを喉から押し上げるように、放った。
見上げる先の枝に、銀の被毛を逆立てたコヨーテが、白銀の光の風に溶け込むように現れた。ステファンを見下ろすと、同じ強い眼光が合わさった。コヨーテは、その新生物に牙を覗かせると、静かに哂い飛ばす。
『てめぇの雌が望む世界を守る、ってか……』
神の改良を経た獣の遠吠えに、コヨーテの直立した耳が、ぴくりと角度をつけた。
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