21
ホリーは、サラダを盛りつけながら考えていた。早めに帰宅すると、夫から連絡が入ったものの、結局はいつも通りの時間が近づきつつあった。
陽が落ちるのが早くなり、気温は急に下がってしまう。まだ出さずに置いている冬物を出し切ってしまった方がよいだろうかと、まだまだ余裕があるコート掛けを眺めた。
暑いと言ってばかりの夫は、他の上着よりも少し薄手のトレンチコートを着て出かける。しかし、今の気温差を考えると、そのような事はもう言っていられないのではないか、と感じた。そして、残りの衣替えを簡単に済ませようと、空き部屋のクローゼットに向かった。
そうこうしている内に、ガレージから物音がし、ホリーはそちらを覗いた。夫は入って来くると、いつもの調子で声をかけ、ハグをしてくれた。だが、その動きはどこか早く、まるで顔を隠すようにも思えた。
そして夫は、どこか足早に2階の寝室に行ってしまう。ホリーは、その様子が以前とはずっと違っていることに、胸に寒気がした。
足の怪我によって、夫が身体と向き合う期間が長くなるなど、当然だった。なのに自分は、彼を懸命に励ます気持ちがまだまだ足りておらず、以前の夫ばかりを思い出してしまう。
元気づけようとするなど、きっと身勝手だ。とはいえ、近頃は、無理に彼の胸の内に触れようとせずに堪えている。それが、少しばかり窮屈に感じるようになった。
これを夫に打ち明けたことはない。そうするべきではないと言い聞かせ、黙ってやり過ごしてきた。言葉も、空気も、できるだけよく読むように気をつけてきた。だが、果たして、いつまでもこのままでいいのだろうかと、階段の手摺りに力が入る。
ホリーは、夫が下りてくるのが遅く感じ、気づけば、部屋の傍まで上がってきていた。何か物音がするのは、単に荷物や着替えに触れているだけのことだろう。なのに、何をしているのかが妙に気になった。
「ステファン」
うっかり口にしながらドアを開けると、夫は何食わぬ顔で首を傾げ、微笑んだ。その笑みに釣られるように、こちらの頬も上がる。その時、何故かデスクに置かれたノートパソコンに目がいった。働き方を変えてからずっと手にしているそれに、ホリーは視線が導かれたような気がした。
じっと見ていては怪しまれるだろうと、すぐさま夫に向き直る。その頃にはもう、彼は腹が減ったと笑いながら部屋を出かかっていた。
「ああ、ねぇ……その……」
ホリーは夫を追った。
帰宅の連絡を受けた際に、彼が少しだけ口にした、暫く休むことにした件だ。それが気になり、どうしたのかと口走りかけて、止まる。
夫は、階段の途中で振り返ると、やっと目を合わせてくれた。だが、何を考えているのか、一向に言葉が聞こえてこない。じりじりと煩い静けさが、不安を煽ってくる。
急かすべきではないと、ホリーは笑い、何でもないと言い流した。すると夫は、引っ込んでしまう手を優しく取った。
「悪い……でも……守りたいんだ……」
夫の不思議な様子に、ホリーは何も言い返せず、じっと見つめたままになる。彼はこちらを見ているはずなのに、この身体を貫き、背後のもっと奥のどこかを透かして見ているような眼差しで、笑みを繕っていた。
そして彼は、リビングに下りていってしまう。ホリーは、その背中に首を振ると、堪えていた気持ちが溢れ出た。
「ステファン、暮らし方は色々あるわ。お願いだから、そんなに気負わないで」
ホリーは階段を下りきるなり、夫の両腕を掴んだ。
「私は、何かが起きた時にアジャストができる暮らしが、いい暮らしだと思ってる。私はもう、貴方にたくさんいいものを貰ってる。だから貴方には、これからを楽しみにしながら生活をしてもらいたいの」
「……どうしたんだよ」
夫の笑みには、驚きが滲んでいる。だがその顔も、どこか違うところを見ているようで、ホリーは引っかかった。その理由が何なのか、何をしてよいかが分からず、速まる鼓動を抑えたいあまり、彼に抱きついた。
「何か言って……貴方のことが分からなくなるのが嫌……」
腰に回ってくる夫の手は、僅かな接触で、弱々しいものだった。それがどうしても、震えているのではないかと錯覚してしまう。いつもなら力強く抱き締め返してくれるのに、寂しさに視線が揺れてしまう。
「頭の使いすぎで疲れたんだ。考えてみたけど、俺は、どこにいたって誰かをみられる。むしろその方が、動きやすいような気がしたんだ。そのための準備をしてただけ。で、それがやっと終わって、いよいよ始めようってところ」
ステファンは、妻の焦る息遣いを和らげようと、ゆっくり、しかし普段通りの口調を意識して伝えた。そして、やっと彼女と顔を合わせると、その額に慎重に唇を押しつけた。
「どうして1人でそこまでするの……」
溜め息交じりに苦笑する妻を、ステファンはもう一度抱き締める。耳を擽る妻の笑い声に、自然と口角が上がった。最も欲しかった時間を、やっと全身で受け止められた。鼻の奥まで通る妻の香りを、じっくりと嗅ぎ続けた。どの感覚器官と比べても、鼻だけは頼れる気がした。
食事も忘れるほどに妻を抱き締めていると、点いたままのテレビからニュースが流れはじめた。ステファンは、話題の野生動物の騒動に、まるで耳に角度をつけるように、じっと集中してしまった。
Instagram・Threds・Xにて公開済み作品宣伝中
インスタではプライベート投稿もしています
インスタサブアカウントでは
短編限定の「インスタ小説」も実施中
その他作品も含め 気が向きましたら是非




