10
外来患者の診察を中心にした働き方も、時に窮屈なスケジュールになり、忙しかった。とはいえ、家庭の時間が乱れるまではなく、むしろ少し余裕がないくらいが、余計なことを気にせずにいられた。
ステファンは、データ化されたカルテが映る液晶に、目を走らせる。そして、何気なく回したペンが落ちた時、次の患者が入ってきた。
「どうだいドクター、腹は元通り! 新品の胃袋を入れてくれたお陰だ」
その患者は、満面の笑みでステファンの肩を叩く。
ステファンは愛想笑いするのだが、内心、患者の発言に首を傾げていた。適当に世間話をはじめる患者は、どうやら常日頃からお喋りのようで、そのお陰でどうにか、診察の姿勢を保つことができた。
液晶の情報が頭に入ってこず、立てかけていたファイルを慌てて開く。中からは、その患者の胃切除をした後の経過記録が出てきた。
どれだけ目を通しても、思うように読み取れない。診察を進めるよりも、自分自身に起きている混乱の要因を探ろうとしてしまう。
経過記録に目を通していくと、末尾に記されている執刀医を含むオペメンバーの名前の中に自分の名前があり、ただただ眉が寄る。
「移植はされて……いや、してないですよ……切られ……ああ違う、駄目なところを切った。それだけですよ」
ステファンは、たどたどしく告げるにつれ、顔の引き攣りを感じた。患者は、口を開けたまま石のようになる。その反応もまた、ステファンは理解できず、固い笑顔のまま次の言葉を探った。
「ドクター。俺は今、大学を2度滑ったどんくさい孫が、意外にも、家畜の助産の腕がよすぎて飛び上がったって話をしてるんだがな」
自分の話を次々と進める患者に、ステファンはまたしても、心が掬い上げられる気持ちになる。
「へえ! 偶然だな、うちは助産師が不足してまして。お孫さんに是非、求人へご応募をとお伝え頂きたいな!」
言いながら立ち上がると、ステファンは間髪入れず看護師を呼び、急用の電話がきたと伝え、誤魔化した。
「前回と同じ処方で問題ないから、彼の薬局にメールを送っておいてくれ。悪いけど、一旦空ける」
その患者は、前回、前々回と、状態は安定している。それを診るだけが限界だった。締めの案内を看護師に任せると、ステファンは慌ててテラスに向かった。
強風が雑に脱いだ白衣を煽いだ。
ステファンは、柵に上体を預け、例の歪な発熱に頭を抱える。仕事を妨げられた焦燥に、顔が歪んでいく。
自分が手術をしたなんて思えなかった。記録と記憶の乖離に、今度は寒気がする。
忙しくしていたことや、妻の体調のこと。妻との時間も気にしており、結局まだ、精神科に連絡できていなかった。こんなラリーを繰り返したおかげで、身体が限界を告げているような気がした。
重い頭を上げ、呆然と街を眺めた。ただ普通に暮らしたい。それが成立しているという実感が欲しい。もし通院をしてしまえば、その希望から遠ざかる。むしゃくしゃするあまり、大きく腕に突っ伏した。
「ここにいた、ステフ――」
「俺が欲しいのは薬でも診断でもないっ!」
気づけば、事態を嗅ぎつけてやって来た恩師の腕を、振り解いていた。謝罪が、ただの息にしかならない。視界が揺れ、身体が揺れる。絶対に普通ではない自分に触れさせるまいと、ステファンは柵に縋りながら、後退りしてしまう。鼓動の音が、環境音を全て覆い尽くしていく。
Instagram・Threds・Xにて公開済み作品宣伝中
インスタではプライベート投稿もしています
インスタサブアカウントでは
短編限定の「インスタ小説」も実施中
その他作品も含め 気が向きましたら是非




