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身体を縛っていた何かが解け、ステファンは、床に吸い寄せられるように倒れ込んだ。その衝撃で、視界が一気に色を取り戻した。そこら中に視線を何度も這わせ、肌をできる限り床につけ、じっくりと感じ、意識し続けた――あたたかい我が家を。
なのに、どうしても別のところに身を置いている感覚がしてならない。仰向けになり、ぼやける視界の中で、元に戻った両腕を眺める。
一体何を体験させられているのか。本当は寝たきりになり、異能力を得て、ヒーローかヴィランにでもなった。そんな映画の中で、勝手に生かされているような気がしてしまう。
おかしな妄想をする自分に、絶望が膨らんでいく。家族に迷惑をかけないためにも、精神科医を訪れるほかはない。そう決意しては、疼く身体を鞭打ち、立ち上がった。
そこへ、ノックの音が転がった。
「ステファン、いるの……ごめん、入れて……」
妻の、今にも胃が突き上げそうになっている声が、ごく自然に滑り込んできた。ステファンは、この場の悲惨な状態を隠そうと、破片を適当に端に寄せ、そこら中にタオルを敷き詰めた。そして、普段通りに妻の肩を取り、中へ導いた。
外に出れば、何かが聞こえてくるのかもしれない。ステファンは、それを想像すればするほど、足が外に向かなくなった。
バスルームでの騒ぎに妻は気づいていないのか、彼女は何も言わず、今はソファで横になっている。そこから目を逸らして数分後、少し体調が落ち着いたのか、声をかけてきた。
「何見てるの……」
妻のか細い声に振り向くと、ステファンは膝のノートパソコンを畳んだ。そして、彼女の半ば閉じかける目を覗いた。
「家でできることを探そうと思ってな。通院や入院を決めかねてる人の力にだって、きっとなれるから」
言いながら、妻の温かい手を握る。彼女は、努力家だと感心しながら、弱々しく手を握り返して微笑んでくれた。だが、その笑みもすぐに引っ込んでしまう。
「気遣って、話してないことでもあるんじゃないの……」
妻の声は、どこか思い切っているように感じたが、ステファンは特に表情を変えず、ただ見つめ返す。
ホリーは、ここで横になる前のことを思い出していた。何か騒がしい音と振動がしたような気がし、それが外からなのか、家の中からなのか、はっきりしなかった。気のせいだったのか、寝ぼけていたのか。それとも体調のせいだったのかは分からない。細かいことだと、どこかで思いながらも、やはり気になってしまう。
ステファンは、じっと見つめてくる妻に笑った。そして、相変わらず鋭い勘だと、気さくに話した。
「オペは暫くしない。それだけだ。その分、何で埋められるか、可能性を探ってる。別に苦しくない。むしろ新しい動きをしてるから、新鮮で楽しいよ」
それに、こうして近くにいられるのだし、と言い足すと、妻の髪から頬に手を滑らせる。
ホリーは、思っていたよりも爽やかに話す夫と、その手つきの温もりに、じんわりと浸っていく。彼の指先に、笑みがこぼれた。だが、それもほんの一瞬のことだった。すかさず彼の手を掴み、まずは視線で訴えかけると、今度はそれを声にした。
「これ、どうしたの……」
夫の手には、傷テープが幾つか巻かれていた。しかし彼は、変わらぬ口調で話す。
「ほら、あの鏡。前から建てつけが悪かっただろ。ドライヤーをしていたら落ちたんだ。その片付けで」
ホリーは、頭の中にあった騒がしいものの正体を知った途端、ころころと笑った。
暫し2人の時間を過ごしてから、ステファンはノートパソコンを手に、キッチンへ向かった。妻が水を飲みたいと言ったついでに、自分の分のグラスも出した。
ふと、手が止まり、先ほど調べた精神科のことを思い出す。通院をするにしても、この人間離れした事態を、医者にどう伝えてよいか分からない。コヨーテや虫の話し声が聞こえるなどと言えば、幻聴や妄想を視野に入れて話しが進むだろう。それを理由に一時入院となれば、妻に申し訳が立たない。またもし、家を離れれば、何かが起こるのではないかと、あらゆる不安が押し寄せてくる。
コヨーテの発言が、ずっとこだましていた。突然現れ、身体に異変をもたらすその存在は、この手で確かに掴んだのだから、実在している。
あの獣の歪な発言についてなど、深く考える気はなかった。しかし、通院する以上、どうしても思い出してしまう。
長い溜め息の中、顔を上げた。生物の声を聞きたいのは妻の方だというのにと、ステファンは、遠い雲間から顔を出す青空を、ぼんやりと眺めた。
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