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不完全な花の状態は、変容過程にあることを表します。
ステファンは、手術着を片付けてすぐ、休憩室に籠っていた。妻との電話中、どうにか自然な自分を装えたのは、彼女の陽気な声に救われたからかもしれない。
淹れたものの放ったらかしにしているコーヒーが、スマートフォンを置いた衝撃で揺れる。その波紋にぶれていく沈んだ顔を見ているのがやっとだった。
「……ちょっと大丈夫?」
同じオペメンバーだったジニーが、白衣姿で戻るなり、ステファンの顔色の悪さに眉を寄せる。立ち会いが久しぶりとはいえ、彼がオペ後にそのような状態になるなど、初めてだった。
ステファンは顔を上げると、何ともないことを手だけで示す。
「嘘ばっか。真っ青じゃないの。熊害からのメンタルダメージは、そんなすぐに拭えないよね……」
彼女の言う通りだった。しかし、血液に対する恐怖心が芽生えたり、頻繁に当時がフラッシュバックする訳でもなかった。助手の務めは滞りなく進み、状況把握も変わらずできていたと胸を張れる。だが、緊張していたのは事実だった。オペ室を出た途端、電源が切れたように立ち眩みがし、以前に見た、灰色の視界に暫し悩まされた。
「参った……いつまでも鬱陶しい……」
ステファンは苛立ちの眼差しのまま、やっとカップに触れる。しかし、やはりそれまでだった。結局、コーヒーはジニーに譲った。
重い身体を引き摺りながら、どうにか定時まで仕事を続けた。退勤後は、緊張が解れたからか、運転ができるまでに回復していた。その余裕が、妻の身体のことを考える時間を生み、順調に買い出しもできた。
帰宅してすぐ、ストックに食材を詰めた。パンは全粒粉のものに変え、デカフェ飲料を手前になるように仕舞った。食後はいつもアイスやケーキが多かったが、果物を中心に取れるよう、テーブルの空いたバスケットに盛った。
何だか熱っぽさを感じながらも、気にしては負けだと、身体を鞭打った。無理にでも日常の動きを擦り込むためだった。
鶏肉をトマトと煮込んでいる間、温野菜とマッシュポテトの準備を終えた。ところが、アドレナリンが切れ、急にシンクの縁に両腕をつき、脱力してしまった。
妻には悪いが、バスで帰ってきてもらう方がいいだろうか。そんな悩みが浮上してしまっても、時間はまだあった。もう少し考えようと、熱くなった首に触れながら、背中を伸ばした。
その時、ダイニングから物音がした。何かの位置がずれるような音だったが、もともとクロスなどは敷いていない。それに、今この瞬間も、何の揺れも感じない。
一度横になろうかと考えていたところ、不気味な音のせいで、背中にぞっとした感覚が走った。眉を寄せたまま、勝手に忍び足になるのに任せて、音の出所を探りに向かう。と、そこには――椅子に乗ってリンゴを喰らう、銀のコヨーテがいた。
ステファンは腰を抜かしかけ、忽ちキッチンの柱を掴む。そして、コヨーテの追い払い方を目だけで模索した。こんな時、妻ならどうするだろうか。電話をするべきか。しかし、今は機内だろう。そんな自問自答を呑気に繰り返してしまう。
猟銃も護身用の銃も、あるはずがない。近接武器で仕留めるしかないのかと、つい、学生時代のサバイバルゲームの知恵が湧き出た。だが、ゲームとリアルとではまるで違うことなど、目の前の光景と全身の震えで明らかだ。
熊といいコヨーテといい、いい加減にしてもらいたいと、ステファンは目を尖らせる。強すぎる鼓動は、骨を軋ませてくるようだ。この現象が、発熱を更に促している気がして、尚のこと怒りが込み上げる。
コヨーテは、2つのリンゴをあっさり食べ終え、ブドウに喰らいつこうとして、止まった。そして、何食わぬ顔でステファンを振り返る。
彼を捉える灰色の瞳の中の丸い瞳孔が、猫のような縦筋に変わった。それは、じわじわと銀に灯り、光を増していくと、被毛に広がった。滲んだ銀の光の筋が背中を這うと、コヨーテは、その場を神秘的に照らす。
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