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花弁が動き出す時。
それは、潜在能力や才能が目覚め、外へ現れだすといった意味があります。
外来診察を始めてひと月が経ち、7月の半ばを過ぎた。
ステファンは、歩行の違和感がほぼ薄れ、周囲にも驚かれるばかりだった。また、気まぐれに生じていた妙な体調不良は、完全ではないが、発症の頻度は減っている。妻との時間こそが、回復への近道であったと信じていた。
職場では快適な気温が保たれ、誰もが、早い夏だとぼやいていた。雨ばかり続く5月に比べれば、外出がしやすい。だが、いくつもある季節を堪能するといった過ごし方は、年々難しくなってきている気がする。
午後の診察を終え、ステファンは晩御飯時に帰宅した。車も運転できるようになり、事故に遭ったことが嘘に思える瞬間もある。しかし、足を気にすれば、今でもはっきりと当時が浮かぶ。森に入るには、まだ抵抗があった。獣に負わされた傷ともなれば、この恐怖心は一生のものになるかもしれない。
それを考えるだけで憂鬱になる日もあったが、今は比較的、日常を取り戻せている。何なら今夜は、やっとだが、妻に少しだけいい話ができるので、胸が躍っていた。
ところが家に入ると、いつもテーブルで仕事をしている妻の姿がなかった。書類が散らかっており、現在も作業中であるのが見え見えだ。
2階に向かって呼んでみても、返事はない。スマートフォンを見ても、特に連絡は入ってなかった。バスルームにいるのだろうかと、そこを調べに向かう手前、荷物を1人掛けソファに置いた。
その時、奥のリビングのソファの膨らみに目が留まった。薄いタオルケットが包んでいる何かに、ステファンは目が引き寄せられていく。すると、寝息が聞こえた。
妻は、柔らかすぎるクッションを2つ重ねてまで、寝床を整えていた。最近は、寝ることが増えている。職場で勤務をしていた頃の方が、寝落ちしていてもおかしくなかったというのに。まるで逆の生活を送る妻の様子に、ステファンは笑みを漏らした。
ふとした影の揺れに気づき、ホリーは薄目を開いた。そして、瞬きだけで夫を二度見しては、重々しく起き上がる。
「やだ、何時……ごめん……」
「呼ぶまで寝てろよ。講義がもうじきだから、疲れてるんだろう」
それはそうかもしれないがと、ホリーはぼんやりした顔で夫を見る。そのまま暗い夕景色に目がいくと、ほとんど陽が落ちていると分かり、深く肩を落とした。
「捗ってたのに、急に睡魔がきたの……」
ステファンは、もう一度テーブルの状況を見た。
「内容でも変えてるのか? 随分、資料があるみたいだけど」
「念には念を……こんなチャンス、なかなかないから……」
「ぐっすり寝るチャンスも、そうないぞ」
夫の面白がる優しい声に、ホリーは首だけで納得する。しかし妙な睡魔であり、そのことを夫に話す。そして両目を擦っては、彼の胸に寄りかかった。
「ねぇ、別の心当たりがあると思わない……?」
半ば辛そうに凭れかかる妻を、ステファンは支え直した。そして彼女を腕に迎えたまま、何となくソファの端に目を向ける。
先ほどまでこぼれていた笑みが、だんだん胸のざわめきに変わっていく。妻の話を聞くと、昼食もまともに取れなかったそうだ。昨夜は知恵熱だろうかと言い、頭痛も訴えていた。
「診てもらう?」
「貴方が診て……」
ホリーは、未だ襲いかかる睡魔に抗いながら、ぼんやり笑った。夫の顔を見なくとも、彼の小さな笑い声から、質問がわざとだと分かる。
敢えて確かめ合わずとも、お互いが状況を理解できる。それに胸が温かくなった。
「講義に支障が出ないといいが」
「講師が突然眠り姫になったなんて事態、大学にとっては要らない歴史ね……」
「なら、起こすには俺がついて行かないと。白い馬でなら、どのくらいで着くんだろうな」
ホリーは幼い笑い声を上げると、首を横に振った。
「いいわよ、気持ちでなんとかなる。貴方もやっと戻りつつあるみたいだし、ちゃんと流れに乗って」
ホリーはウィンクすると、夫の肩を支えに立ち上がる。いつから寝ていたのか分からないくらい、全身が楽器のように音を立てた。それにもまた、笑ってしまった。
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