11
視線が定まらず、床が回り、揺れを感じた。その間、たった今体験したことが遠ざかり、かすれ、見えなくなっていく。連なる記憶の尻尾を掴み止めるように、ステファンは、思い出せるだけを音声に録ろうと、スマートフォンを出した。ところが、手の震えで滑り落ちてしまった。
すぐさま拾い上げたところで、身体が止まった。何をしようとしていたのかを、じっと考えてしまう。確かに何かをしようとしていた。なのに、時間に置いてけぼりにされたような感覚だ。
左足の擽ったさに、忙しなくパンツの裾を上げた。だが、包帯下の傷テープを剥がそうとするまでに、違和感は消えた。傷テープに血液や膿は滲んでいない。
何かにコントロールされているのかと、ステファンは眉を寄せる。すると、何かに身体を触れられ、何かを囁かれたような気がして、咄嗟に肌や耳に触れた。細いもので肌を撫でられる感触に背筋が伸び、肩が跳ね、至るところを払い続ける。
「ああ、何だっ!」
舌打ちした時、電気ポットが沸騰完了を示していることに気付いた。この短時間に起きた異常に、またも背中が冷たくなる。
熱い何かが胸に渦巻き、紅茶を遠ざけてくる。一か所だけに熱が集まる感覚は、火傷にも似ていた。そこだけが燃えるようで、冷蔵庫から慌てて水を取り出し、流し込んだ。
半量を飲んだところでボトルを叩きつけると、首を大きく落とし、肩での呼吸が続いた。その内、せっかく忘れられていた昼間の症状や、痞えていたものが沸々と込み上げてくる。
幸せを邪魔してくるそれら全てが鬱陶しい。不可解な症状は、多くの目が集まった時には、うんともすんとも言わない。なのに、独りになると顔を出す。それも、意識的に機会を狙い、短時間で弄んでくる。
いい加減にしろと、ステファンは思わず叫びかけて止まった。そんなことがしたかったのではないと、空のマグカップを横目に見る。妻と一息つきたかっただけだ。そのまま他愛のない話をし、ぐっすり眠れればいい。それだけのことが、何故いつまでもできないのかと、首が自ずと振られる。
普通の暮らしをしたいだけだった。やっと一緒になれた妻と、普通に家庭を築いていきたい。その邪魔を、しないでもらいたい。
目に見えない何かに、大事なものを奪われそうな気がして、鼓動が速くなる。そして気がつけば、階段を不器用に上っていた。
もう、独りでリビングにいるなど耐えられなかった。今は、独りで立ち上がることも、歩くことも、何かを準備することもできない。
「ホリー……」
2階の暗がりに薄っすらと浮かぶ妻の顔に、声だけで縋る。手摺りが妻の腕に変わるようで、放すまいと、勝手に力が入っていく。
独りでは上手くやれないし、自信も持てない。妻なしでは、何も――
部屋のドアを開けてすぐ、妻が振り向いた。どうやら自然と開けられたようで、彼女は驚かず、微笑みながら首を傾げた。
「あら、もう済んだの。ありがとう」
「いや……」
半ば返事を重ねては、妻に少しずつ近づいていく。目が勝手に、彼女の髪や頬、目から鼻、唇、首元へとなぞっていく。
「休めば……? 随分経ったろ……」
気にかけるものの、妻は、そうだろうかと目を瞬いては、デスクの時計を見た。そして、ころころと幼い笑い声を上げた。
「本当!? もう15分も経ってる! 通りで肩が重いわけね!」
妻のとぼけが終わると同時に、ステファンはその肩に触れた。
この時ホリーは、カードが返されるように、表情を変えた。夫が、どこか無理して自然を装っているのを嗅ぎつけ、思わず立ち上がる。そして、彼の目をじっと見つめ、ゆっくりとその頬を包んだ。
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