EX4 夢現
目を覚ます。それは同時に、夢から覚めた事を意味した。
ひどく妙な夢を見た気がする。内容は思い出せないが、ここではないどこか別の世界の夢を。
「お目覚めですか?」
ぼやけた視界に、女の子の顔が映る。
蜜のように長い黒髪、雪のように白い肌、人形のように整った顔立ち……。まるで美しさを人という形に押し留めたような、そんな存在。
「天使……?」
「うふふ。寝ぼけてらっしゃるんですか、お兄様」
天使。いや、彼女は――
「氷菜?」
「はい。お兄様の可愛い妹、氷菜ですわ。寝坊助さん」
そう言って、氷菜は寝転ぶ僕の額をちょんと人差し指で押す。
そうだ。僕は寝ていたのだ。いつから? いつの間に?
「いい夢は見れました?」
上から覗き込むにようして、氷菜がそんな事を僕に聞いてくる。
「……あぁ。とてもいい夢が見れたよ」
「まぁ、どんな?」
僕は畳の上に体を起こすと、氷菜と向き合った。
今日の氷菜は、梅の花をあしらった柄付きの白い着物に臙脂の袴を合わせており、いつもの事ながら惚れ惚れする程の美しさだった。
「夢の中で僕と氷菜は兄妹じゃないんだ。赤の他人で、でも、その内、恋人になるんだ」
「それで?」
まるで夜寝る前に親に物語をせがむ子供のように、氷菜が僕に話の続きを促す。
「一緒に学校に行ったりお互いの家に行ったり出掛けたりなんかもして、二人はその、なんていうか、とても幸せそうだった」
「そうですか。それはとてもいい夢を見ましたね」
微笑みをその顔に浮かべ、氷菜がそう僕に告げる。
「あぁ。とてもいい夢だった」
「お兄様」
僕を呼び、ふいに氷菜が僕の胸に飛び込んでくる。それを受け止め、僕はその絹のように滑らかな髪をすくように彼女の頭を撫でる。
氷菜の頭はとても心地よい。
こうしている時、僕は自分が抱える不安や苦しみをこの瞬間だけ忘れる事が出来る。
許されるなら、いつまでもこうして氷菜の頭を撫で回していたい。だけど、それは叶わぬ夢。僕達は兄妹、いずれこのような交わりさえ許されない時が来る。そう遠くない内に。必ず。
「もし生まれ変わったら、私達もそのような生活が送れるんでしょうか」
ふと氷菜が、そんな夢物語を口にする。
「生まれ変わりか。本当にそんなものがあるんだろうか」
自分は前世の記憶があるという者の話は聞いた事がある。しかし、その記憶の正確さを確かめる事は出来ても真偽までは証明出来ない。当たり前だ。人の思考を科学的に証明する事など不可能なのだから。
「分かりません。けど、もしもそれが本当に可能なのだとしたら……」
胸元から聞こえてきた氷菜のその声はひどく真剣で、どこか氷のような冷たさすらあった。
氷菜は日頃から、心に不安定さのようなものを抱えている。それは危うく、下手をすると他人だけでなく自分までをも傷付けてしまう抜き身の刃のようだった。
「氷菜?」
心配になり、氷菜の顔を覗き込む。
「お兄様」
顔を上げた氷菜の表情は、怖いくらいに落ち着いており、それが逆に僕の不安を更に駆り立てた。
「心配ありませんわ。私達の絆は永遠ですもの」
「あぁ、そうだな……」
自分の気持ちを紛らわすように、僕は氷菜の頭を優しく撫でる。
僕には氷菜しかなかった。氷菜さえいてくれればそれでいい。他に何も望まない。だから、どうか神様、そんなものがあるかさえ分からないけど、来世では僕と氷菜に平穏な日々を。どうか。どうか……。
……。
…………。
………………。
「胡蝶の夢という話を知ってるかしら?」
気が付くと、そこは住宅街だった。
少しぼっとしていたらしい。どのような経緯で、氷菓さんの今の言葉が発せられたか全く記憶になかった。
「胡蝶の夢ってあれだろ? 中国の昔の人が言ったっていう……」
荘子だったか。蝶になる夢を見た男が、目を覚まし、果たして自分は蝶になる夢を見ていたのか、あるいは蝶が人間になる夢を今も見ている最中なのか、そのどちらが本当なのだろうとかいう……。
「晃樹君の話を聞いて、ふとそんな考えが思い浮かんだの。内容はあまり覚えていないけど、やけにリアルな夢だったってあなたが言ったから」
なるほど。そんな話をした後の流れだったのか、今のやりとりは。
次第に思考がクリアになり始め、現状をようやく把握出来るようになった。
現在僕は、氷菓さんと登校中。僕が見た夢の話から今のやりとりに繋がった、と。
それにしても、歩きながら記憶を手放すって、どれだけ疲れているんだ、僕は。テスト勉強のやり過ぎか? 勉強もいいけど、何より体調には気を付けないと。テスト前に倒れたら元も子もない。
「まぁ、私は今がリアルだって信じてるけど」
「そりゃ、そうだろ」
とはいえ、夢の中でこれが夢だと気付く事はあるが、その思考に至るまでは今いる世界が紛れもないリアルだと誰もが思って生きている。そう考えると、夢って怖いな。今までリアルだと思っていた事が、急に全てなかった事にされるんだから。
「いた!」
ふいに頬に痛みが走り、思わず僕は声を上げた。
「何するんだよ」
つねられた頬を擦りながら、僕はそれをした張本人に抗議の意を示す。
「現実と夢の区別が付いてないようだったから、教えてあげたのよ」
痛みを感じるという事は夢じゃないというやつか。
古典的だが、目が覚めたのは事実だ。
「そうそう。夢と言えば、枕の下に想い人の写真を入れて寝たら、その人が夢に出てくるっていう話もあるわよね。つまり、晃樹君は枕の下に私の写真を入れて寝れば、今日みたいに変な夢も見ないし、夢で私に会えるし一石二鳥。ね、いい考えでしょ?」
なんとなくだが、おそらくそれを実行したところで、結果は変わらないような気がする。
とはいえ、そんな直感を根拠にした戯言など口に出せるはずもなく――
「そうだね。早速、今日にでもやってみるよ」
結局僕は、そう言ってこの場はお茶を濁すに留めた。
「ま、とは言ってみたものの、成功率はそんな高くないんだけどね。そのおまじない」
「え?」
その言い方だとまるで、実際に試したように聞こえるが……。
「私も毎晩実践してるだけど、三日に一回しか晃樹君、夢に出てきてくれないんだもん」
「……」
実践済みかぁ。しかも、三日に一回出ているんだ、僕。それって、結構ハイアベレージなんじゃないか、普通に。もしかして、本当に効果あるのか、そのまじない。
いかん。氷菓さんの話を聞いて、少し興味が出てきてしまった。本当にやってみようかな。手間もそんなに掛からないし。写真は、スマホの中にあるこの間の遊園地で撮ったやつを、プリントアウトすればいいだろう。
「成功したら教えてね。出演料徴収するから」
「出演料って何?」
「それは……ひ、み、つ」
唇に人差し指を当て、意味深にウィンクをする氷菓さん。
氷菓さんがその仕草をすると、ときめく反面、違う意味でドキドキする。主に、身の危険を感じるという意味で。
「大体、出演料って言ったら、僕の方が貰わないとだろ」
三日に一回出ているって話だし。
「出演料なら払ってるじゃない。おべんとう」
「あれって、そういう意味だったの!?」
「うふふ。冗談よ。あれは私が好きでやってる事だから、気にしないで。でも、そうね」
そう言うと氷菓さんは、何か考える素振りをした後――
「え?」
一瞬、頬に何やら柔らかい物が当たった。
その場所を押さえ、僕は氷菓さんの方に目をやる。
「出演料、なんちゃって」
おどけた様子で、そんな事を言う氷菓さん。その頬は微かに赤く染まっていた。
「恥ずかしがるなら、人前でこんな事しないでよ」
「人前じゃなければいいの?」
「……まぁ、時と場合によっては?」
二人きりでなんとなくそういう雰囲気なら、こういう事をするのも僕自身吝かではない。
「じゃあ、私が夢に出てきたら、今度は晃樹君がしてね」
「なっ!?」
なんだ、それは。いつそんな事が決まったんだ。今か。今なのか。
「その時、どこにキスするかは晃樹君の自由って事で」
「自由……」
氷菓さんの顔の一部を見つめ、僕は思わず生唾を飲む。
自由とはつまり、そういう事だろう。
「今夜はいい夢が見れるといいですね、お兄様」
「……」
小悪魔のように笑う氷菓さんの顔を見て僕は、早く夜が来て欲しいような来ないで欲しいような、複雑な気持ちになるのだった。




