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第19話 自室/運命

「ただいまー」


 扉を開け、玄関でそう声を上げる。


 もちろん、日頃は声など張らず、小声でぼそっと言うだけ。今日は連れがいるので、特別だ。


「はいはい」


 リビングから声がして、母さんが顔を出す。


「やっほー、ひょうちゃん」

「やっほーです、智子(ともこ)さん」


 いつの間に、ウチの母は息子の恋人をあだ名で呼ぶくらいの仲になったんだ。まだ出会って数週間だぞ。早くないか。


「で、そちらが」


 さすがいい年した大人、真面目(まじめ)モードへの切り替えが早い。


 まぁそもそも、いい年した大人は、息子の彼女に「やっほー」とは言わない気もするが、それとこれとは話が別、なのだろう。


「香坂優雨です。氷菓と一緒に暮らしてる従姉であり姉代わりの」

「優雨さん。私は海野智子。智樹の母です」


 自己紹介を交わし、二人が微笑み合う。


「どうぞ。こちらに」

「お邪魔します」


 母さんに連れられて、優雨さんがリビングへと入っていく。


 さて、僕達は――


「部屋、行こうか」

「そうね」


 氷菓さんの家を訪れた時とは訳が違う。別に、僕達が同席しないでも保護者同士、勝手にやるだろう。


 僕を船頭(せんどう)に、階段を登る。


 二階に上がってすぐ右が僕の部屋だった。


「どうぞ、入って」


 扉を開け、そのままの姿勢で氷菓さんを招き入れる。


「失礼します……」


 少し緊張した面持ちで、氷菓さんが僕の部屋へ足を踏み入れる。


 氷菓さんが部屋の奥へ進んだのを見届けてから、僕は後ろ手に扉を閉めた。


「適当な所に座って」

「はい……」


 恐る恐る、テーブル前のカーペットの()かれた床に腰を下ろす氷菓さん。


 僕も少し距離を開けてその隣に座る。


「「……」」


 隣に座った事なんて何度もあるというのに、場所が変わるだけでなぜここまで緊張するのだろう。やはり、自室という自分のテリトリーに付き合っている女の子が来ているという事実が、そうさせるのだろうか。相手のテリトリー×付き合っている=そういう事、的な?


 って、何を考えているんだ、僕は。今日、氷菓さんはここに勉強をしに来たんだ。それに、下には母さんと優雨さん、後、おそらく父さんもいる、はず。そんな状況で変な事なんて……。いや、いなければするとかそういう話では当然なく……。


「勉強しようか」


 不埒(ふらち)な思考を消し去るため、僕はそう氷菓さんに告げる。


「そう、ですね……」


 僕の言葉を受け、氷菓さんが(かばん)からいそいそと勉強用具を取り出し、それらをテーブルの上に並べる。


 それに倣って、僕も勉強用具を並べ――ようとして、


「あ……」


 その全てが勉強机の上に置かれたままだという事にようやく気付く。


 そういえば、家を出る前に、予め用意しておいたんだった。すっかり忘れていた。


 並べる瞬間まで気が付かないなんて、どうやら自分で思っている以上に僕は、相当テンパっているらしい。


「前、通るね」

「あ、はい」


 勉強机はテーブルの向こう側にあるため、テーブルの前を横切り、そちらに向かう。無事、勉強用具一式を確保し、元の場所へ。


 床に腰を下ろすと、テーブルの上に勉強用具を並べる。


「お待たせ」


 こちらの準備が整うのを待っていてくれた氷菓さんにそう声を掛け、僕は氷菓さんと共に勉強を開始する。


 まずは数学。今日は自室での勉強という事で、氷菓さんに質問する可能性のある教科を優先的にやっていこうと思う。特に数学は他の教科と違い、暗記だけでは誤魔化せないので僕の中では最上位の要注意科目だ。


 問題集の問題を、答えの部分を隠して解いていく。


 初めの方はすらすら解けるが、後半になるにつれてどんどんそのスピードが落ちる。


 そもそも、数字は苦手なのだ。得意不得意とかではなく、苦手。夕食でサラダを見た時の感覚に近いかもしれない。もちろん、僕は出されたご飯は全部頂くタイプの人間なので、サラダだろうと全部食べ切るが、それでも苦手な物は苦手なのだ。……一体、なんの話をしているんだ、僕は。そうそう。苦手な物は苦手、それは理屈ではなく感覚なのでどうしようもないという話だった。多分。


「氷菓さん、ここなんだけど……」


 勉強の邪魔にならないようにタイミングを見計らって、氷菓さんにノートを見せ、問題の解き方を尋ねる。


「あぁ、ここは――」


 氷菓さんが体をこちらに近付け、問題の解き方を僕に教えてくれる。


 近い。それにいい匂いがする。折角、氷菓さんが教えてくれているのに、話が半分程しか頭に入ってこない。


 それにしても、なんで女の子ってこんなにいい匂いがするんだろう? シャンプーか。シャンプーが違うのか? でも、同じシャンプー使っても匂いが違うって話だし、やはりフェロモン的なものが女の子からは出ているのだろうか?


「……様?」

「え? 何?」


 氷菓さんに呼ばれ、ぼんやりし掛けていた僕の思考が、ふいに浮上する。


「ちゃんと私の話聞いてます?」

「ごめん。氷菓さんにドキドキしてあまり聞いてなかった」


 この状況で誤魔化しても仕方ないので、僕はぼっとしていた理由を正直に口にする。


「ドキドキって、もう」


 口では怒ったような事を言いながら、氷菓さんのその顔はどこか(うれ)しげだった。

 可愛い。僕の彼女、めちゃくちゃ可愛い。


「お兄様から聞いてきたんですよ」

「ホントごめんって。今度はちゃんと聞くから」

「絶対ですよ」


 いかんいかん。勉強教えてもらっているのに上の空なんて、さすがに失礼過ぎるだろ。集中。集中しないと。


「よし」


 両の(ほお)を少し強めに叩き、気合を入れ直す。


「お願いします」

「はい。じゃあ、最初から」


 その後、僕は氷菓先生の個人レッスンを受け、数学の理解度を少し上げた。


 頭のいい人の中には、教えるのが下手な感覚タイプと教えるのが上手い理論タイプがいると言うが、どうやら氷菓さんは後者のようだ。


 ホント、氷菓さんってなんでも卒なくこなすけど、苦手な事なんてあるんだろうか? お化けは苦手みたいだけど、そういう事では当然なく……。




「うーん」


 シャープペンをノートの上に置き、大きく伸びをする。


 掛け時計で時刻を確認すると、勉強を初めてちょうど一時間というところだった。

 そろそろ、休憩するか。


「下行って何か取ってくるね」

「え? あ、お構いなく」


 氷菓さんの返答に微笑を返しつつ、僕は立ち上が――ろうとして途中で止める。


 音がした。誰かが階段を登る音だ。その音は次第にこちらに近付いてきて、ついに僕の部屋の前までやってきた。


 母さんか?


 そんな事を考えていると、コンコンと外から扉がノックされた。


「はーい」

「私。手が(ふさ)がってるから、扉開けてくれない?」


 声の主は母さんではなく、優雨さんだった。


 僕は今度こそ立ち上がり、扉に向かい、内側からそれを開いた。


「勉強(はかど)ってる?」


 そう尋ねてきた優雨さんの手にはお盆が持たれていて、その上には二人分のジュースの入ったコップとお菓子の入ったお皿が乗せられていた。


「すみません。お客さんにこんな事」


 慌てて優雨さんの手から、僕はお盆を受け取る。


 母さんも何を考えているんだ。


「あ、いいのいいの。私から言い出した事だから。ちょっと様子を見にね」

「はー」


 なら、別にいいけど。


「少しお話いい?」

「え? あ、はい。どうぞ」


 お盆を手にした僕が先に部屋に入り、その後に優雨さんが続く。


「何?」


 優雨さんの姿を見た氷菓さんが、少し不満げな様子でそう尋ねる。


 二人の仲が悪いわけはないから、逆に気の置けない相手だからこその、この対応なのだろう。


「邪魔しちゃってごめんね。色々な意味で」

「べ、別に、勉強しかしてないし」


 本当に勉強しかしてないのに、氷菓さんのその言い方だとまるで別の事をしていたように聞こえ兼ねない。


 変にフォロー入れても逆にややこしくなりそうだし、さり気なく話題を変えるか。


「両親とはどんな感じだったんですか?」


 氷菓さんが勉強用具を隅に寄せてくれて出来たテーブル上のスペースにお盆を置きながら、僕はそんな事を優雨さんに聞く。


 まぁ、元々聞きたかった事だし、話題の転換としては別段不自然な点はないだろう。


「別に、普通に世間話をしただけ。主に、お互いの『子供』についてね」


 そう言って優雨さんが僕達に、ウィンクをしてみせる。


「「……」」


 優雨さんのその言い方だと、勝手に話の中心にされた当の『子供』達にとっては、あまり耳にしたら楽しくなさそうな話をしていそうで、どうも反応に困る。


「ねぇ、晃樹君」

「うわ」


 なんの予兆もなく、急に優雨さんに距離を詰められ、僕は思わず後ずさる。


「何するの」

「うぉ」


 そして、いつの間にか立っていた氷菓さんによって、そちらに引き寄せられ、更に驚く。


 耳元で氷菓さんの声がして、鼻孔(びこう)を氷菓さんの香りがくすぐり、あまつさえ背中に何やら(やわ)らかい物を押し付けられ……。もう僕の頭はパニックだった。


「いや、晃樹君の顔、どこかで見たなって。しかも、相当昔? 小さい頃、とか」

「そりゃ、そうでしょ。小さい頃、実際に会ってるんだから」

「「え?」」


 氷菓さんの何を当たり前の事をと言いたげなその言葉に、僕と優雨さんは同時に驚きの声を上げる。


「会ってる? 僕と優雨さんが?」


 確かに、どこか既視感のようなものを感じないでもないが、それは氷菓さんと顔が似ているからだとばかり思っていた。


「というか、私達三人が、ね」

「どういう事?」


 僕の気持ちを代弁するように、優雨さんがそう疑問の声を上げる。


少野(しょうの)みどり公園、小さい頃に行った事あるでしょ、二人共」

「うん。確かに」


 あぁ、やっぱり。夢で見たあの女の子は氷菓さんだったのか。


「行った事あるって言うか、氷菓の家とウチの家で一緒に行ったのよね。それで氷菓が迷子になって……。え? 待って。まさか、その時の……」

「そう。その時の、一緒に迷子になってた男の子がこの晃樹君」

「えー!?」


 先程の比じゃない程に驚く優雨さん。


 僕もあの迷子の記憶がなければ、彼女と同じリアクションを取っていた事だろう。


「待って。って事は、氷菓の言ってた運命の人も……」

「もちろん、この晃樹君よ」


 言って、氷菓さんが僕を再度抱き寄せる。


 耳元で――以下略。


「マジか……」


 余程の衝撃的だったのか、優雨さんのテンションが逆に低くなった。


 驚き過ぎると人は、逆に大きな声を出せなくなるらしい。


「というか、運命の人って?」


 前世の記憶と関係した話なのだろうか?


「氷菓が公園から帰る間際に言ったのよ。運命の人を見つけたって。まぁ、子供だし、迷子になって心細い思いしたら、一緒にいた男の子を好きになる事ぐらいあるかなってその時は思ったんだけど……。まさか、実際に数年後にその子と付き合うとは……」


 衝撃の事実に、優雨さんは感動するどころかむしろ引いていた。


 無理もない。氷菓さんの性格を考えると、僕と彼女が一緒の高校に通っている事は運命などではなく必然。つまり、氷菓さんが僕の入学する高校を事前に調べ、あえて被せてきたのではないかとすら思える。


 まぁ、今更僕はその程度の事では引かないけど。


「じゃあ、アレは前世のお兄様って言うのは……」

「……もちろん、この方よ。ね、お兄様」

「ははは」


 この状況、もう笑うしかなかった。


 二人きりの時にお兄様と呼ばれるのはもう気にしないようになったが、人にそう紹介されるのはさすがに抵抗がある。


「晃樹君、頑張ってね」

「はい。頑張ります」


 覇気(はき)のない瞳の優雨さんによって告げられたその(はげ)ましの言葉に、僕も同様に覇気のない瞳で応じる。


「うふふ」


 そんな中、氷菓さんだけが一人、満面の笑みを浮かべており、その様はひどく対象的だった。


 ……まぁ、可愛いので良しとしよう。

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