第16話 両親/懺悔
その建物は若干浮いていた。物理的にではない。雰囲気的にだ。
高級住宅が立ち並ぶ、いわゆる閑静な住宅では決してない、普通の住宅街の中にいきなり大きく値段的に高そうな家がぽつんと建っているのだ。浮かないわけがない。
両開きの格子状の門の向こうに白く立派な建物が見える。洋風の二階建ての建物だった。全体的には横に長い長方形の造りながら、ところどころに流線形の部分があり、それがいい感じにアクセントとなっている。敷地全体を囲う壁は建物同様に白く、そこに不規則に付けられたレンガ風のタイルがどことなくお洒落だった。
氷菓さんが門を開く。
「どうぞ」
先に入れという事らしい。
意を決して僕は、敷地内に足を踏み入れる。
瞬間、空気が変わった――ような気がした。まぁ、言ってしまえば、ただ単に僕の中の緊張感が一段階上がっただけ、なのだが。
「どうかしました?」
僕に続き敷地に入った氷菓さんが門を閉めながら、そう尋ねてきた。
「いや、なんでもない。行こう」
ここで僕が弱音を吐いてどうする。緊張しているのは氷菓さんも同じだ。だったら、頼りになるところを見せないと。
「はい」
緊張の面持ちで頷く氷菓さんと共に、僕は高梨家へと歩を進める。
一歩一歩がまるで、鉛でも足に付けられているかのように重たい。メンタルがここまで身体に影響を及ぼすとは知らなかった。これは受験の非じゃないな。倍、いや、五倍くらいのプレッシャーを今僕は感じていた。
家の前までやってくると、氷菓さんは深呼吸を一度し、その後、チャイムに手を伸ばし、それを押した。
然程待つ事なく、インターホンが繋がる。
『はい』
インターホン越しに女性の声が聞こえてきた。氷菓さんのお母さんだろうか。
「私」
『今開けるわね』
声の後、インターホンが切れる。
程なくして、扉が開く。
「お帰りなさい、氷菓。そして、いらっしゃい、晃樹君」
そう言って僕達を出迎えてくれたのは、一人の女性だった。
薄いグリーンのブラウスと濃いグリーンのロングスカートに身を包んだ、黒髪ロングの大人美人。その顔はどことなく氷菓さんに似ており、確かな血の繋がりを僕に教えていた。
間違いない。氷菓さんのお姉――もとい、お母さんだ。
とはいえ、目の前の女性はとても十五の娘がいる母親には見えず、姉がいないという前情報がなければもしかしたら勘違いしていたかもしれない。若い時の子供なのだろうか。それにしても、若くて綺麗だ。
「晃樹君」
名前を呼ばれ、氷菓さんに肘で脇を突かれる。
いかんいかん。信じられないような奇跡を目の当たりにして、意識が若干トリップしてしまっていた。気をしっかり持つんだ、僕。そんなんじゃ、氷菓さんの助けになれないぞ。
「海野晃樹です。本日は突然の来訪にも関わらず、お時間を作っていただき――」
「うふふ」
女性の笑い声が聞こえ、台詞が途中で中断する。
「ごめんなさい。そんなに畏まらなくても大丈夫ですよ。リラックス、リラックス」
「はー……」
出鼻を挫かれ、僕は思わず気の抜けた返事をしてしまう。
「改めて、氷菓の母、高梨柚季です。どうぞ末永くよろしくお願いします」
そう言って、氷菓さんのお母さん――柚季さんが僕に向かって深々と頭を下げる。
「こちらこそよろしくお願いします」
それに倣い、僕も頭を深々と下げる。
不思議な人だ。独特な雰囲気を醸し出しており、いつの間にかペースを掴まれている。ただ、決して悪い気分ではない。これが大人の女性というやつか。
「お父さんは?」
「リビングにいるわ」
「そう……」
つまり、そこが決戦の地……。氷菓さんのお父さん、一体どんな人なんだ……。
「こんなところで立ち話もなんだし、上がって、晃樹君」
「はい。お邪魔します」
柚季さんに促され、僕は靴を脱ぎ、用意してもらったスリッパに履き替える。
そのスリッパは、シンプルなデザインながらいい物を使っているのか、履き心地がウチの物とは段違いだった。
高梨家は玄関からしてすでに立派だった。
光沢のある木製の床。天窓からの光が差し込む吹き抜け。存在感のある木の柱。真っ白な壁。そして何より広い。もしかしたら、ウチのリビングといい勝負かもしれない。そう思える程、高梨家の玄関は広かった。
「どうぞ」
柚季さんに先導され、僕と氷菓さんは二人並んでリビングに向かう。
二人並んで廊下を歩ける時点で広いと思ってしまうのは、高梨家が広いのか僕の家が狭いのかどっちだろう。
目的の場所は、部屋を一つ通り過ぎた二つ目の所にあった。
扉はなく、廊下から中の様子が見える。
壁の一遍は全て窓で、外の光がリビング全体を照らしていた。置かれた調度品は全てブラウンを基調としており、全体的に落ち着いた雰囲気を醸し出している。テレビ、食卓、それに付随する椅子、そしてソファーとテーブル。置かれている物は少なく、それが余計にリビングの広さを際立たせていた。
ソファーに一人の男性が座っていた。こちらに背中を向けているため、まだ顔は見えない。落ち着かないのか、ソファーに深く腰掛けたり浅く腰掛けたりを繰り返している。
おそらく、あの人が氷菓さんのお父さんだろう。
「秋人さん、二人が見えたわよ」
「あぁ」
柚季さんの呼び掛けに、男性が立ち上がり、ソファーを迂回しこちらにやってくる。
男性は、白いシャツに黒いスリムパンツという出で立ちだった。黒い髪は短く切り揃えられており、若々しさと大人らしさの同居した顔立ちをしている。顔つきは緊張のせいか、少し硬かった。
「え?」
その顔を見た瞬間、僕は声を上げた。
頭の中はパニックだった。何がなんだか分からない。現状を理解するには、もう少し時間が必要だった。
「え?」
僕の顔を見た瞬間、男性も同じように声を上げる。
心境は僕と似たようなものだろう。混乱と戸惑いがその表情から見て取れた。
「あなたは……」
「君は……」
二人で同じような言葉を呟く。
自分の記憶が間違っていないかの確認作業、そんなところだろう。
「二人共、知ってるの?」
氷菓さんが僕達の反応を見て、戸惑ったようにどちらにでもなくそう尋ねる。
無理もない。初対面のはずの彼氏と父親が、二人して変な顔をして固まっているのだ。動揺するなという方が難しい。
「偶然、狗城公園で会ったんだ」
その問いに答えたのは、僕だった。
そう。狗城公園で最近、目の前の男性と僕は会っている。間違いない。孔雀の鳥籠の前でストラップを探していた人物、それが氷菓さんのお父さんだった。
リビングは不思議な空気に包まれていた。
僕と氷菓さんが並んで一つのソファーに座り、その対面のソファーに今は氷菓さんのお父さんである秋人さんが一人で座っている。ちなみに、柚季さんは今、キッチンで飲み物の準備をしてくれている。
誰一人、口を開こうとする者はいなかった。完全な膠着状態だ。
仕方ない。ここは僕が突破口を開こう。
「驚きました。まさかあの時の人が氷菓さんのお父さんだったなんて……」
「私も驚いたよ。まさかあの時の青年が氷菓の彼氏だったなんて……」
お互いに似たような台詞を吐き、苦笑いを浮かべる。
世間は狭いというべきか、運命というべきか、とにかく妙な巡り合わせだ。
「海野晃樹と言います。氷菓さんとお付き合いをさせて頂いています」
そう言って僕は、頭を下げた。
「高梨秋人、氷菓の父です」
同じく秋人さんが、頭を下げる。
そして、どちらともなく微笑をその顔に浮かべる。
「氷菓とはどうやって?」
秋人さんの質問に僕は、確認の意味を込めて氷菓さんに視線を向ける。
正直に話しても、特に問題はなさそうだ。
「氷菓さんから告白されて、その場でオッケーしました」
「ウチの子はその、少し変わってるだろ」
「えぇ。まぁ……」
そこはさすがに否定出来ない。
「でも、そこも含めて氷菓さんなので」
「……そうか」
おそらく、秋人さんは僕とこの話をしたかったのではないだろうか。根拠はないが、なんとなくそんな気がした。
「氷菓さんはストーカー気質なところがあります」
「「え?」」
父娘の声がハモる。急に僕が変な事を言い出したので、驚いたのだろう。
二人の反応は予想通りだったため、僕は特に動揺する事なく、言葉を続ける。
「雨が好きです。絶叫系が好きです。氷を模した物が好きです。僕のプレゼントしたアクセサリーを喜んで付けてくれます。相合傘がしたくて嘘を吐きます。その全てが氷菓さんを形成する要素です」
「その全てが氷菓を形成する要素か……」
秋人さんが呟き、何やら思案するように体の前で手を組み、目を瞑る。
「もちろん、現世の記憶もです」
「!」
僕の言葉に、秋人さんが目を見開く。
驚き、戸惑い、混乱……。様々な感情がその表情から見て取れた。
隣で不安そうな表情を浮かべる氷菓さんに、僕は大丈夫と口の動きだけで伝え、微笑む。
「初めて現世の話をされた時、僕は戸惑いました。当然です。そんな話をいきなり同級生から聞かされ、はいそうですかと飲み込める人間はいません」
「なら、どうして……?」
「それが彼女の全てじゃないからです」
「全てじゃない? それは一体どういう……?」
「現世の記憶。その事も彼女を構成する要素の一つに過ぎないという事です」
「なっ」
言葉を失ったように、半開きの口のまま固まる秋人さん。
それは当然の反応といえば、当然の反応だった。一つの要素と割り切れる程、現世の記憶は普通な事ではないだろう。だが、僕はあえてそれを、なんでもない事のように氷菓さんのお父さんに告げる。
「お父さんの前でこういう事を言うのはどうかと思いますけど、そんな事より可愛かったんですよ、氷菓さんは」
「……」
今度は開いた口が塞がらないといった様子で、大きな口を開いたまま固まる秋人さん。
今日はホント、大人の色々な表情が見える日だ。
閑話休題。
「なるほど。それは重要なポイントだね」
そう言うと秋人さんが、まるで悪戯坊主のようににやりと笑う。
さすが男子の先輩、話が分かる。
ちなみに、氷菓さんは僕の隣で顔を真っ赤にしてあわあわしている。話の腰を折るわけにはいかないので、こちらの対処は後回しだ。
「最初は見た目、次は内面、現世の記憶の事なんてどうでも良くなるくらい、僕は氷菓さんに惹かれていったんです」
「恋は盲目……。いや、君の場合、見えた上でそれでもなお、氷菓が魅力的な女性と言ってくれてるのか。父親としては、どんな顔をしてこの話を聞けばいいのか悩むところだね」
今度は、その顔に苦笑いを浮かべる秋人さん。
笑ったり困ったり忙しい人だな。まぁ、それをさせているのは、何を隠そう僕なのだが。
「そうか。私の目は曇ってたんだな。そんな大事な事すら分からないくらいに……」
溜息を吐き、秋人さんが首を横に振る。
「氷菓」
父親が娘の名前を呼ぶ。
「……」
呼ばれた娘は、無言で呼んだ父親の顔を見る。
「すまなかった」
頭を下げる父親を、娘はなんの表情も籠っていない瞳で見つめる。
「私は君に、自分の中の普通を押し付けようとしてたのかもしれない。いや、してたのだろう。その他の事を一切排除して」
後悔、懺悔、哀愁……。様々な感情がその表情から見て取れた。
「本当にすまなかった。謝って許される事ではないと思うが、謝らせてくれ。あの時怒ったのは私の間違いだった。本当にすまない」
今度は、先程より深く頭を下げる。約十年の蓄積をそこに全て籠めるように。
「きっと――」
リビングに入って初めて、氷菓さんが自ら口を開く。
「私は一生忘れないと思う。親に否定されるというのはそれぐらい重大で重要な事だから」
「……」
娘の言葉を一つ残らず受け止めようとしているかのように、秋人さんは黙って氷菓さんの顔を真っ直ぐ見つめる。
「その上で、今の謝罪の言葉は一応受け入れようと思う。一応、だけど」
「……ありがとう」
仲直り、というにはあまりにも素っ気ない、感動の欠片もない会話だったけど、今の二人が交わせる精一杯の会話がこの辺りなのだろう。まぁ、一歩前進という事で。
「海野君もありがとう。今日は来てくれて」
「いえ、僕は本当にただ来ただけなので」
「奥ゆかしいんだね、君は」
そう言って、秋人さんが微笑を浮かべる。
奥ゆかしいなんて、人に初めて言われた。大人しいとか弱々しいとかなら、言われ慣れているけど。
「話終わった?」
タイミングを見計らったように――いや、実際に見計らったんだろう、柚季さんがお盆を持って僕達の元に現れた。
「あぁ、今しがた」
「そう。それは良かった」
秋人さんの言葉を受け、柚季さんが全てを悟ったように微笑む。
どこまで話を聞いていたのだろう。もしかしたら、最初から最後まで全部聞いていたのかもしれないし、実は何も聞いてなかったのかもしれない。どちらにしても、柚季さんなら話の内容を全て把握していそうだ。そう思わせる何かが彼女にはあった。




